自分は、今、二つの事象に興味を持っている。一つは「あることを始めて、それが受け入れられるものならば7年くらいで爆発的に発展するということ」。もう一つは「あることを考えたとしたならば、それと似たような考えを持っている人が必ずいるということ」である。
 考えが類似していると、二番煎じのようで何となく居心地が悪いことより、この考えはその人とは全く別のところから生まれて、受け入れられたという擬似体験の喜びの方が強い。いつか一番の考えが浮かぶのではなどと考えてしまうが、いかんせん、それをものにする能力と縁が欠けているという致命的欠点がある。
 須原一秀氏の生き方は、自分が考えていた「長期自殺のすすめ」と非常に似ている。そして、実際に氏は自死してしまった。氏は2000年に『高学歴男性におくる弱腰矯正読本』に「寿命予定表」なるものを取り上げた。そこで、「自分の寿命の予定を自ら設定して行く生き方」を推奨している。
 氏は、単に観念的に思いついたものではなく、生活実感に即して述べられたものであることで「いい加減な見当付け」を提示したわけではないことを客観的に立証するためにこの哲学的事業を遂行した。これは清沢満之師の実験的念仏の精神に通じるのではとも思う。
 自分はこのブログで書いているように、おぼろげながら63歳と3日を命日とする生き方を目指していたが、実際63歳まで生きられるのか?生きてしまったらそのときはどうするのか?などと考え、その時は、名を変え、生活を変えて出家でもするか。それを死と考えようなどと小ざかしい知恵を巡らしていたが、同じことを真摯に以前から考えていた人がいた。いや、この人は、たまたま発表するチャンスがあっただけで、もっともっと多くの人が、積極的な自死を選んでいるのだろう。そのような人の考え方が今の世の中には必要なのだ。
 前にも書いたが、死のうとしている人を止めることは基本的に出来ない。自分が唯一生きる必要性を説くならば、あなた(自分)が死ぬことによって、将来会いたがっている人との出会いの機会を消滅させてしまう、ということ意外にはない。
 そういえば昨日、渥美半島田原町に行ったけど、渡邉崋山も母親が見張っている隙をついて自害したとのことでした。
 老人の犯罪のニュースが多くなる今日、そうなる前にあの人は、すばらしい人だったというところを自分で見きわめて、自死するという文化が開けてもおかしいことではないと思う。22世紀に子孫のために。