暁烏敏の世界 魂(いのち) 萌(も)ゆ福島和人 太田清史編 東本願寺出版部
「三味線ばあちゃん」にも出てくるように
「私はその時、心の中で、ああ、この総長さん(暁烏敏)は、肉体の目こそ見えなくておられるが、心の目の開けた人やなぁ、と思いました。」
「ああ、御本山の総長さんともあるお人が、こないな、誰も目もくれん私のようなものの話を長々と聞いてくださった上に、『またたのむな』言いなさるとは―。それを聞いたとき、私は『よーし、この総長さんのためなら、どないなことしてでも―』いう心になりましたのや―」と思わせる魅力のある方だったようだ。
 しかし、自分は以前「地獄は一定すみかぞかし 小説暁烏敏」石和鷹著を読んで、この人はどういう人だろうと。オビに書かれていることは「暁烏敏は、仏教近代化運動の旗手でありながら、自らの女性スキャンダルを公言して憚らなかった真宗大谷派の僧である。」私生活がどろどろの僧に何も興味が起こらなかった。
 「魂 萌ゆ」は法話の語録である。それを読むと、なるほど、引き込まれるのである。今回、暁烏敏師に縁があり読み返して見たが、どの語録もよくわかる気がする。例えば一番初めに出てくるのは1925年「涙のにじむ生へ」の中の言葉。
 『ゆたかな心がほしい、ふくよかな心がほしい。
 とげとげしい心、こだわる心はいやだ。
 とげとげしい心から、とげとげしい言葉が出る。
 こだわった心から、こだわった言葉が出る。
 いやなことだ。
 自分の上にこうした相(すがた)が見えた時に、自分は、まだ、だめだ。』

 「仏説無量寿経講話・下」1931年では、
 『先日、他所へ行ったら、「私の悪いところがあったらいうてくれ」という人があった。わしは「どこか善いところがあるか」というたら、びっくりしていた。自分が善いものだと思うておるから、ちょっとでも悪いところがあったらいうてくれというのだ。自分が善いものだと思うておるから、無意識に、どこぞ悪いところがあったらいうてくださいという言葉が出るのである。そういう言葉の出るのは驕慢の心があるからである。悪いところがあったらいうてくれというのは、やや角が折れたような言葉づきではあるが、その実、折れておらぬのである。そういうことをいうのは、やはり何か飾る心を持っておる証拠であります。』
 自分が暁烏敏師にお会いすれば、すべてお見通しとなってしまうように鋭い方であったようです。この本の語録を以って、自分をもう一度見つめ直そうと思いました。あんなことしなければ良かったと後悔・反省していること、また知らず知らずのうちに傷つけていることも含めて、感じて見えるようになるように。そして、そこすらも飛び越えた境地(そんなこと意識しなくても出来るところ)に到れるように。知らず知らずの場合には、気づかねば直すことも出来ないのですが、この本はそこに気づかせてもらえるような気がしました。