真宗大谷派の御遠忌テーマは「今、いのちがあなたを生きている」です。日本語としてどうだろうかということがいつも問題になっている。英語で訳すとわかり易くなることが多い。「いのち」が主語、「生きている」は自動詞だから目的語をとらず前置詞を置く。するとinとかwithとかでつなぐことになる。「今、いのちがあなたの中に生きている」「今、いのちがあなたと共に生きている」となる。無理にでも目的語「あなたを」を生かそうとすると「今、いのちがあなたを生かしている」と読み替えて、それを受動態にすると「今、私はいのちによって生かされている」ということになる。
 これらの3つの文章は、最初の文章よりは分かりやすいが、味がなくなっているようにも思う。3つ若しくはそれ以上に解釈できるテーマの奥は深い。
 去年の夏、このテーマにつまづき分からなくなっていた。それは「いのち」というものが分かりづらい言葉だったからである。しかし、ある瞬間パッとひらめいた。「いのち」とは一つのものであり、我々生きとし生けるものは、その一つのいのちから分けられたいのちを借りているのだと。だから、全ての衆生は同じいのちを分割して生きているのだと。丁度、水銀の玉が机の上でバラバラになったり、一つにまとまったりするイメージである。倶会一処とはそんなイメージか。そう思ったとき、教務所の前の木で鳴く蝉の声が全ての音を消して、太陽の光が一段とまぶしくなった。「やった!」充実した一時であった。そんな経験がこのテーマを素直に受け入れさせてくれている。
 
 例えば日は観音なり。その観音の光を赤ちゃんのときから目にしているけれども、意識していないときは、光に気づきもしない。すこし知恵が付くと、自分の目の力で物を見ていると思う。お日様の働きを知らない人は、私の目から光を出してものを見ているように勘違いをするが、もしそれなら夜も物が見えるはずである。「あぁ、日の光によって見えていたのだ」とすみやかにその元々の働きに気づいたものは、私の目に入る光は観音菩薩の光に帰する。
 帰命の義もまたこのようである。意識していないときのいのちも阿弥陀の御いのちであるけれども、その気のないときには気がつかず、すこし知恵がついて自力の心が出てくると、「我がいのち」と思うようになる。善知識が「もとの阿弥陀のいのちへ帰せよ」と教えるのを聞いて、帰命無量寿覚したならば「我がいのちすなわち無量寿なり」と信ずるようになる。このように帰命するのを正念を得ると解釈する。
 すでに帰命して正念を得たらんものは、たとえ枷重くてして、この帰命ののちに無記になるとも(信じる信じない分からなくなっても)往生すべし、と。

 「今、いのちがあなたを生きている」にはすべてのものを摂めとる徳が込められていると知るべきである。