仏教的ものの見方-仏教の原点を探る-森章司著 国書刊行会

仏教的ものの見方・生き方 いかにして「あるがまま」を「あるがまま」に見られるようになるか(5)
(4の続き)しかし、これは日常的な最低限の目標であるにすぎない。宗教的な究極の目標に到達するためには、あまりにも幼稚すぎる。そこでやはり、。『大般泥オン(三水に亘)経』(だいはつないおんきょう)や『法華経』が説くような「戒」を目指さなければならない。そのために必要なこととして、たとえば『倶舎論』の説く修行道の体系では、最初に「少欲知足」が掲げられ、これが「戒」を導くとされる。「少欲知足」は仏教の最も基本的な生活態度であるが、現代の価値観では、欲望を最大限に充足させることが肯定され、「少欲知足」は最も対極にある価値観となってしまった。
 確かに、自由主義経済は今日の繁栄をもたらしたが、そのツケとして地球が人間の棲息を保証し得る限度を越えるほどにもなった。そして今では、欲望は神の領域を侵すまでにもなっている。子のない夫婦は人工授精で望みをかなえ、臓器移植で延命を図り、遺伝子操作で優れたものを生みだそうとする。
 しかし、個人的な利益を追求して、合理的な経済活動を行なえば、「見えざる手」によって経済活動はスムーズに行なわれると説いた自由主義経済の父アダム・スミスも、本来はグラスゴー大学倫理学の教授であったし、積極的な財政支出政策によって経済成長を促し、これが均衡をもたらすと説いたケインズは、「後少なくとも百年間は、いいは悪いで、悪いはいいと、自分にも人にも言い聞かせなければならない。悪いことこそ役にたつからだ」と言っている。少なくとも彼らには、欲望の充足は「悪」という反省があった。(6に続く)