写真をとったのですが、うまく取れていませんでした。結構手ぶれとかが多くて困ります。動かないようにしているつもりなんですが。
今日は、本龍寺さんで岡崎教区第15組青壮年研修第2回おとなの寺子屋がありました。講師は、荒山 淳 師。テーマは「真宗入門」講題「門徒もの忌み知らず1」です。
我々は、知らず知らずに占いや迷信に振り回されてしまっているかも知れません。真宗門徒は、その生活の中で迷信と厳しく向かい合ってきた伝統があると言います。親鸞聖人の御和讃に「かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす」というものがあります。800年前も今も人間の精神構造は変わらないと言うことでしょうか。結婚式は大安、病院の退院は友引、逆に友引には葬儀を出してはいけない等々。六曜というものは中国の諸葛孔明が考え出した「戦暦(いくさこよみ)」のことで、戦をするにあたって考え出した占いのようなものだそうです。日常生活でこのような迷信に縛られて、行動しているならば「哀れ」とも言えるでしょう。
と書きましたが皆さんはどう思われますか。やはり、その行動は何故するのか、自分はどう動くのか、いつも主体的に考えてみることが必要でしょう。分ってみると「なーんだ」ということも多いかもしれません。
また、最近は直葬ということも多くなっているそうです。今年の毎日新聞1/20付に亡くなった人が残した葬儀不要の遺言が告知されました。それを読むと、「哀れ」の言葉が通切に感じられてなりません。何がここまでかたくなにさせるのか。仏教界に対する問題提起ではないでしょうか。この人は死を考えていないわけでは有りません。むしろ真剣に考えています。何しろ今死のうとしているのだから。しかし、この文章を読むと死は敗者のように思えてなりません。情けない死んだ姿をさらし者にしないでほしい。暗にそういっているように、「ありがとう」といってはいますが強がりのように聞こえるのです。
「ぼくは、浄土に行く。」信国淳先生のことばです。自分の死後にどんな葬儀をしてもいいですが、私は浄土に行くと心から言えるようになりたいものです。