歎異抄

同朋講座で先生が歎異抄の第2章の講義をされた。
講義であった。ありがたいことではあるが、何か物足りなさを感じていた。「質問は有りませんか」の声に、一人が往生極楽について質問した。
極楽は地獄の、浄土は穢土の、また真実報土は方便化土の対の語である。
第2章は「往生極楽のみち」を問い聞かんがために遠路はるばる聖人を訪ねてきた。
「よく来たな。念仏ひとつだぞ。そして、真の人間になってくれ。生まれた意味と生きる喜びを見開いてくれよ。自分が自分でよかったと感動してくれよ。」
訪れた人々はそのようなことを親鸞聖人から受け取っていったのだという。
 
何かおかしい、いや、おかしいとまで分らなかったが、帰りにうしろから女性の声が
聞こえた。「飛躍しているよねぇ。当時の人が人間成就なんてかんがえるはずないよ。」その言葉を聞いてピンときた。その違和感だ。第2章はそんなことを言っているのではないのだ。
ヒント:歎異するのだから唯円と他の衆生とは受け止め方が違っているはず。
 

この講義の縁で曽我量深著「歎異抄聴記」を読み直してみたが、自分が思ったような受け取りは今のところ見つからない。