ニーチェは、哲学は人間が今ここに生きるべき生の本質だと考えた。
            白取春彦著 生きるための哲学 ニーチェ[超]入門p.20

この「哲学は」の部分を「真宗は」と変えたような法話がされる場合があるが、だとすると哲学と宗教はどこが違うのかが分らなくなってしまう。生き方が哲学だとか真宗だとか、ある意味言えてしまうのだろう。宗教の話で、生活とか生き方を"善く"生きようと話したりすると重なる部分が多く出てくる。逆に見れば善悪を人間の見地から判断しないところに宗教的な課題があるのであって、仏教者と言えども、この社会を生きる術は哲学に頼っているところもかなりあるということである。それが法話の中に明らかに見えてくる(自分に都合がよくない?と思われるような話をされる)と嫌な感じ、胡散臭い感じが漂うのである。
真宗と哲学の決定的な違いは、「念佛成仏」と「如来より賜りたる信心」と言うことに尽きる気がする。ここで言う成仏とは往生浄土ということである。この二つのことから派生する事柄は多々あるが、これらに触れずして人生の善し悪しを説くならそれは人生の講演(処世術)ということになるのだろう。その結果、講演終了で拍手が出る。拍手も心から感動したと思わず出てしまうものまでは否定できないが、終了の合図のような拍手はお寺には要らない。真宗寺院での拍手の変わりは「受け念仏」であったし、これからも「受け念仏」を習慣として残しておかなければ、伝わることも伝わらないのではないかと懸念するところである。