岡崎教区第8組夏期講習会、19時半よりお勤めが始まりました。
真城義麿師の法話。小気味良い調子で次から次に話しは展開していきます。

 
人間は(数)量というものに振り回されている。
損得、勝ち負けに拘って、浄土から遠い世界にいる。
お内仏という浄土を表すところの前に座らせてもらい、
浄土を感じられる空間を持ったのが真宗門徒である。
 
本尊とは、本当に大事なものである。
人間が考えれば考えるほど都合の良い尊いものとなっていく。
「都合よく」ということから離れることは出来ない。
本当の尊いはよく分からない。
本当の幸せが分からない。
 
「引きこもりの子がちゃんとなるまで見守っているんです」という母親。
今はダメな子ですと言っているのと同じこと。
できたら認められる。
「できる私」が認めてもらえる。「できる私」になろう。
「できる私」になるということは、今の私を否定することになる。
ありのままの私がそのままで救われる。
しかし、ありのままの私が分からない。
ありのままの私のモデルが無いことがやっかいなことである。
 
ありのままの私が分からない。
救われるということが分からない。
浄土ということが分からない。
阿弥陀ということが分からない。
南無ということが分からない。
 
「分かった」はその話を早く終わりにしたいときに使用する言葉。
それ以上聞きたくないときに使う。
「分かった」はそれで歩みが止まる。
「分からない」が真宗門徒のエネルギーである。
 
念仏したら良いこと(利益)があると思うのは、
念仏を手段にしている。
今の子どもたちにとって、勉強は将来良いことがあるという手段になっている。
良いことが実現したり、諦めたときに勉強は終わってしまう。
聞法したら良いことがあるのではなく、聞法している時が一番良い時なのである。
 
少しまとめてみましたが、分かりやすい法話です。でも「分かった」が一番危ない…。