教行信証の勉強会からぎりぎり今日中に帰宅。
と言っても勉強(真宗聖典p.268)は最初の2時間くらいであとは座談です。
 
「宗祖としての親鸞に遇う」という言い方はどうか聞いたら、
「『ムネとする教えを残してくれた拠り所としての親鸞』という意味に
捉えればいいのでは」と教えてもらいました。
だけど、それだと「宗祖でない親鸞」が有るはず無いし…。
「宗祖」という言葉をなぜ、どういう意味で使ったのか本当のところが知りたいです。

「宗祖」に囚われていたけど「遇う」ことの方に重点があるのかなぁ。
何が言いたいのだろう?やっぱり分からないです。
「本願に遇う」とか、こうなると言葉遊びみたい。
  
前から思っていたのですが、
自分に真宗を伝えてくれたという意味では、
知識としての七高僧から、
自分の八高僧と思えなければ本当の親鸞聖人の
ご苦労には触れることができません。
自分にとっては清沢満之という先達をいれて、
九高僧と思えるようになったら幸せなことです。
  
すべて、お味わいの世界だと思います。