哲学はランチのあとで

付箋を貼ったところについて考察していきます。
まずは哲学一般から。

人生における「現実」は、はたして本当に「現実」なのかといった議論は、哲学者たちによって展開されてきました。…さまざまな哲学者は「現実」はすべて夢ではないか」という問い掛けをしています。

これに対して親鸞聖人は「『よろずのこと、みなもて、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。』とおおせられそうろう。」とありますから、もっと強くその思いはあったと思われます。
「人間とは何?自分とは何?」と考えること、それを徹底的に分析したのが、自分のことを「愚かなものである」と心から思えた賢人たちでしょう。
 
自分は哲学と宗教とはどこが違うのだろうかといつも考えていました。それが分からなかったのは、浄土真宗の教えを聴いていたからだと最近分かってきました。浄土真宗の教え、特に近代の教えは哲学に似てきているのです。論理的に頭で納得できる説明を求めてきた傾向があります。例えば「後生」とか「往生」とかの意味づけなど。
 
別冊宝島まんがと図解でわかる「正義と哲学のはなし」には、哲学と思想は何が違うかということが書かれています。
哲学が重要視するのは、物事の本質を追究するために、合理的・論理的にどこまでも考える態度。自分の考えが出たら、理性と言葉を使って、可能な限り厳密に、順序立てて証明しなければならない。宗教的な発想とは、この世を超越したものを根拠にするということ。つまり、誰もその正しさを証明することができず、その考えが正しいか間違っているかの決め手は、「論理的に正しいかどうか」ではなく、「そう思うかどうか」「感覚になじむかどうか」「ピンとくるかどうか」になってしまう。思想には理由はいらない。そこが宗教と哲学の違いだと言う。
 
親鸞聖人は「ただ念仏のみぞまことにておわします」と言われたそのことを、「教行信証」で証明しようとした。その態度が哲学的であり、それを受け継いでいる近代教学が哲学っぽく見えるのも納得である。「ただ阿弥陀如来を信じ任せよ」でピンとくるのが宗教なのだが、現代人にはそうは行かないのである。
釈迦の根本思想である、「生老病死」の四苦の教えや「四諦八正道」「十二縁起」の教えとかは頭で納得できる。その仏教の教えを哲学する意味は近代に不可欠であり、科学的宗教をみんな求めている傾向がある。この"こころの寺"が五劫思惟派を自称するのも「物事の本質を追究するために、合理的・論理的にどこまでも考える態度」を取りたいがためである。
これらの書物の御縁は、改めて哲学するヒントを与えてくれたと思います。       
 
カテゴリーの「映画の紹介」で48本紹介していましたが、その中で見た映画が21本と過半数にも達していませんでした。
なので、とりあえず森田芳光監督「わたし出すわ」を今日、借りて来ました。
真剣に見てみたい(映画鑑賞したい)と思います。