源信に関するの講義を聞いた。
その母の導きが源信僧都を作ったとも言えるのだろう。
「死ねば必ず地獄行きの迷った人に
 褒められるよりも
 なぜ、真実の仏方から褒められる
 真の仏弟子になろうとしないのです」

すごい言葉である。
「後の世を渡す橋とぞ思ひしに 世渡る僧となるぞ悲しき まことの求道者となり給へ」
母の厳しい訓戒にうたれた源信は精進を重ね、比叡山の横川の恵心院に住んで念仏三昧の日を送った。30数年後、母は念仏を勧める源信の膝を枕に安らかな往生をとげたという。
 源信は、「私のような頑魯(がんろ=愚か)の者が救われていく道は阿弥陀如来のみ教えしかない」と『往生要集』の序文に記している。
 
高僧は自分のことを愚かだと言う。
この講義でも、源信は自分のことを「頑魯」といったという。
最澄は「愚中(ぐちゅう)の極愚(ごくぐ)、狂中(おうちゅう)の極狂(ごくおう)、塵禿(じんとく)の有情、底下(ていげ)の最澄」と言った。
法然は「愚痴十悪の法然房(愚かきわまりなく、無数の悪に染まった私)」
親鸞は「愚禿親鸞
自分を悪く言うのが流行りとさえうつることに違和感がある。
そんな愚かなものを開祖として尊敬できるのだろうか。
とりあえず高僧と呼ばれる人たちは偉いのではないか。
本当に自分のことをそんな風に思っていたのだろうか。
 
とそんなことがいつも脳裏をよぎっていた。が、講義を聴いていて何となく分かってきた。
今回の震災などを見ても、お坊さんに何ができるだろうかと考えたとき、
何もできないと感ぜずにはおられないのではないだろうか。
例えば、お医者さんで何十、何百の人の命を救っている人が、
「私は凡夫で、愚の中の愚であります」とは言わないであろう。
また、復興で活躍している人たちも、自分がしっかりやらないと誰もできないのだからとか、
原発の後始末をしている人も代わりはいないと思い、自分を愚かとは思っていないだろう。
逆にいえば、何もできずに、居ても居なくても良いもの、代表格の坊さんは
愚中の愚であるということなのだ。(と思った)
(震災は例ですが、世間の大概のことに坊さんは役に立たない)
そう考えると世の中には、そんな職業も多い。
よく言われる「つぶしが利かない」というのがそうである。
口だけの職業(生産していない職業)にはそういうものが多い。
自分は愚かと思える感覚が正常なのだ。
営業も世の役には立たない代表格である。
 
だが、一歩譲って営業(サービス職)も何かのために役に立つと言ってもいいと思う。
ただ、お坊さんの世のため人のためは、やはり少しずれているかも知れない。
何もできないから説法させていただいているのだ
お経をあげさせてもらっているのだと思わないといけないのだろう。
一生懸命道を求めている人にはそれが見えてくるのだと思う。

あの世ではともかくこの世でお坊さんが威張っているということはありえない。
お坊さんは必然的に「愚」としか言えない(職)業を持っているのだ。
 
僧侶と先生は似たような立場である。
人を導く職の人は、自分は愚かだと思えるほうが良いのであろう。
今の世は全く違う方向にある。
「病む時は病むがよろしく候、死ぬ時は死ぬ. がよろしく候。これ、災難を逃れる妙法にて候」
すべてが良寛でいけると、何も心配がいらないのだけど。