お悔やみの言葉で「天国で会えることを楽しみにしています」と言ったのが問題だという。
主な批判は、
「早死にした人に“天国で会うのが楽しみ”っておかしいだろ」
「亡くなって数日の時点で言う言葉じゃない」
「自分が天国に行ける前提かよ」
 
死後に再開する感覚は普通であるし、弔辞で言うことも普通だろう。
これを見ても現代の(一部の人たちの)死生観は昔の感覚ではないと言うことがいえる。
現代の生き辛さは、こんな思想的に意味のあること(人生哲学)にもクレームがつくという、
こんな雰囲気から来ているのではないだろうか。
自分が天国にいけるかということは分からないが、
それはそれで分かって会おう、会いたいということである。
「倶会一処」(浄土教の往生の利益の一つ。阿弥陀仏の極楽浄土に往生したものは、浄土の仏・菩薩たちと一処で出会うことができる、という意味)はもう通じないのだろうか。
宗派も違うであろうから、天国と浄土の言葉の違いは言うまい。
少なくとも「天国で会えることを楽しみにしています」
と言った方はまだ自分の死生観、命の世界観を持っていて、
死ぬことも受け入れて行けるのだと思う。
批判している人は気を遣っているつもりかもしれないが、
生死の世界観があることをもっと知るべきである。
どちらが人間的か?
論議するべきように思うが、そのような場がないこと自体が課題である。