「本当は、理想の自分を追及して、清く正しく美しく生きたい。」
「でも、生きるということは矛盾や理不尽を受け入れるということ。」
「大人になって、もっと現実を見なければいけないのだろうか?」
 
毎日いろいろな出来事が起こっている。いろいろな感情が渦巻いている。人にはそれぞれ事情もあるし、言い訳したいときもある。一概に一般論では片付けられないし、理想論ばかり言っていても仕方ない。そう人は思う。
しかし、200年ほど前に生きた近代哲学の中核であるカントなら、そういった態度に敢然と「駄目だ!」と立ちはだかるだろう。たとえ現実に実現していなくとも、これは絶対に正しい、と言い切れるものを心の中に持つこと。人間の能力で最も崇高なのは、理想を掲げることだ、とカントは考える。
彼の哲学は「ドイツ観念論」とか「理想主義」と言われる。時には机上の空論とか、全く現実を変える力にはならないと批判を受けることもある。しかし、その有無を言わせぬ「こうであらねばならない!」という迫力ある主張の数々には、圧倒されることもしばしばだ。カントはあなたに、見かけや目の前のことにとらわれず、理想をしっかり持ち、本質を見極め、真面目に生きるべきだと正論をつきつける。たとえば「どんな場合であっても、決して嘘をついてはならない」と言う。しかし私たちには、どうしても嘘をつかざるを得ない時がある。その時あなたは、どうするだろうか。
 
カントの言う道徳はあくまでも「私」の心の中に置いておくことで光り輝く。これをそのまま他者と共有しようとすると敵対することになるであろう。理想を共有するやり方は、カントのやり方ではうまくゆかない。実は敵は、他者に理想を押し付ける自分自身なのだから。自分の心の中で作りあげた「理想界」を世界に向けて、他者に向けて、うかつに矯正できない。簡単には共有できない。あなたの中の理想があなたの現実の行き方を締め付ける。では理想は不要なのだろうか。敵は不要なのだろうか。
                 [哲学で自分をつくる 19人の哲学者の方法 瀧本往人著より引用] 

年齢なのか、精神力なのか、理想に対するこだわりの強さも変わってくるようです。
経験的にここまではできる、これ以上はできないと分別が、
悪く言えば諦めがついてくるからかも知れません。
理想にチャレンジする意欲と、自分のできる範囲で楽しもうとする保守とのバランスは
人それぞれで違っているんです。
みんなで理想に燃えるって楽しいじゃないですか。でも、それも幻想だったんですかね。
考えていることはみんなまちまちで、それが当たり前。
その原則にしたがって、逆らわずが処世術なんでしょう。
良くいえば流れに身をまかせて「自然」に生きる。
でも、カントにはあこがれますね。
 
何かに燃えたい今日このごろ…。