今、「インド哲学の教室―哲学することの試み 宮元啓一著」という本を読んでいます。
学生2名に講義する形式でやさしく書こうとしていますが、正直言って難しいです。
最初の部分からの引用ですが
『わたしたちが、人生は無常だといくらいわれても、そんなことを忘れて安心して生きていられるのは、今日のことがまた明日も繰り返されるという、現在から未来へのアナロジーについて暗黙のうちに確信しているからなんですよ。』
とか、
『身心を自己だと思うということは、無常で頼りにならないものを、あたかも常住なものであるかのように錯覚して頼りにするということに他なりません。それで、わたくしたちは、無常な身心を大切に思うのです。これを、錯覚された自己への執着、つまり我執といいます。』
とかはそうなんだで分かりますが、
『「〈私〉問題」というものを、存在論として論じたいとする論客もいるにはいるんですが、もともと「〈私〉問題」は、現象学、あるいは現象学的な哲学、たとえば西田幾多郎の哲学が判断を中止してきた自己という問題を、主として認識論的な問題として考察しようとするものです。で、問題なのは、その認識論というのが、形而上学的なそれではなくて、「経験科学としての心理学と絡み合って離れない認識論」だという点にあります。』
とか、
『意識現象(世界)の実存性を確立するものは、意識現象の外部にある存在でしかありえないのです。それは、意識現象を担う主体、経験する主体に他なりませんね。それこそが自己なのです。そして、自己の実在性は、他者との相関性を完全に捨象した純粋な自己回帰性によって確立されるのです。自己は、他者との出会いがあって確立されるのではありません。いかなる他者よりも先にその実在性が確立しているのです。自己は、他律的ではなく自律的に、つまり自己のみに立脚する存在です。ですから、自己は生ずることも滅することもありません。不生不滅、不生不死、常住、永遠の存在なのですね。』
とかは、頭がこんがらがってきます。
『自己は、認識主体であるがゆえに、けっして認識対象とはなり得ない』ということを発見したのがインドに現れたヤージュニャヴァルキヤという人だそうです。つまり「自己とはなんぞや」の問いに答えはないということでしょう。お釈迦さまは、自己は経験的な事実ではないことが分かっていたので、自己を主語とした形而上学的な議論、つまり経験的な事実を出発点としない議論を拒否したそうです。自己について語らない態度をとったということです。
 
「〈私〉問題」とは世界の特異点であるに違いない「私」が一体何なのか、あるいは「私」という世界の特異点は、世界のどこに位置するのか、といったことをめぐる一連の議論だそうです。
一般的に「自分探し」とかいって有耶無耶になっていることも、哲学となると厳密に論述しなければならないということでしょう。
本当に「自己とはなんぞや」の問いに答えはない、ということなのでしょうか?多分、哲学と宗教ではその問いの意味が違っているような気もします。
 
疲れたので寝ますね。