今、TVでは心理学を基にした事件ものが流行りのようです。
いっせいにこういう番組が始まるのが不思議ですが。
主なものは「LADY〜最後の犯罪プロファイル〜」「ホンボシ〜心理特捜事件簿〜」「CONTROL犯罪心理捜査」です。
前回の「CONTROL犯罪心理捜査」ではゼイガルニク効果を扱っていました。ゼイガルニク効果とは、完成直前のいいところで中断された内容は、中断されなかった場合のものより、よく記憶されるという現象です。
営業という仕事をしていると、こういうことには興味があります。
それで、昔買った「トリックの心理学」樺旦純(かんば渡る)著をひっぱり出してまた読んでいます。
 
そこに『「相手は何に関心がある?」―これが大事【共感】』という項目がありました。
―他人がの心の動きに対する無関心や無知は、現実に対する関係をまったく歪めてしまい、人を盲目にしてしまう。(中略)他人の感情生活に想像力をはたらかせて、それを察知する法、つまり共感というものは、自我の限界を打破するという意味で賞賛すべきものである。 (ドイツの作家トーマス・マン
 
会話の問題は、何を話すかよりも相手が何に関心があるかなのです。これは大昔からの普遍的な人間の心情です。古代エジプトパピルス文書にも、『請願者は、そのためにはるばるやってきて請願したことが成就することよりも、自分の請願に対する高官の関心を好むものなり』とあります。」と解説があります。
 
これを読んで「歎異抄第二章」を思い出しました。第二章の出だしで「おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。」と言って、後には、「親鸞は念仏以外のことは知らぬ、念仏を選んで信じるも、念仏を捨てるも、各人の計らいです」と突っぱねるように言い捨てています。しかし『請願者は、そのためにはるばるやってきて請願したことが成就することよりも、自分の請願に対する高官の関心を好むものなり』のとおりだとすると、出だしの「みんなは往生極楽のみちを問い聴こうと命を掛けて遠くから来たんだなぁ」と共感した、これひとつで満足したのではないでしょうか。
「共感」ということでは、歎異抄第九章の唯円の問いに、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。」と、師匠として普通では考えられないようなことを言っています。これも、この共感によって、唯円の帰依を絶対のものにしているようです。
第二章で法然上人の名を出すのは「信憑性と説得効果」を利用しています。しかも「釈尊の説教」まで遡って言及するにいたっては、その効果を確信していると言ってもいいのではないでしょうか。
この有名な2つの章をみても、親鸞という人は、非常に優れた心理学者だったのではと思われます。そんな面から親鸞聖人の言動を研究してみると面白いのではと思いました。