昨日の中日新聞の人生のページ、田中教照師の親鸞のいいたかったこと」〜上〜
は分かりやすく本当に良かったと思います。これだけ読めば一通りのことは分かる
ようによく纏められています。まとまりすぎて、次回の〜下〜に何が書かれるのか
興味があります。
まずは、最近キレる若者には「救い」がないのではないかと問題を提起しています。
そして「宗教的な救いの世界」があるということを若者は知らされていないのではないかと分析します。
その説明が分かりやすく合理的な感じがするのは自分だけでしょうか。

「他力本願は「あなた任せ」ということではない。まして、自力本願はありえない。
なぜなら、本願に他力と自力の別があるのではなく、他力がすなわち本願(力)と
いっているのである。つまり自力は非本願(力)なのである。」

よくある間違いであるが筆者はそれを、「無知をさらけ出して平然としていられる無神経さが日本人の特性か。」とまでいっています。これを初めて読んだ人は、ハッと気づかされることでしょう。それほど強い批判です。

「摂取不捨」のご利益は、現代流にいえば、私たちのこころに阿弥陀仏が住み着いて
くださる、といってもよいだろう。そして、阿弥陀仏は叫ぶ。失敗を怖れるな、
しり込みするな、私が護ってやる、迷わず来れ、と。」

二河白道で説かれる召喚の弥陀を言っている。つまり西方極楽へ送り出す(発遣の)釈迦と迎え取る(召喚の)阿弥陀があることに触れずに、「失敗を怖れるな、しり込みするな、私が護ってやる、迷わず来れ」といっているのが阿弥陀仏ですよと説明する。まさに池上彰のように「よくわかる阿弥陀仏」である。
そして、宗教的な救いの結論は

「だから、決してあなたまかせではなく、むしろ積極的に、どんな苦難も引き受けていくのである。護られることで、結果を気にせず、一歩を踏み出せるのである。これによって、前向きに生きていけることと、不思議な縁が恵まれることとで、現に救われるのである。」

 
最後に現代の問題
「現代の闇は、後悔の日々と自分を責めることの中にある。それは、個人の中で悪循環するばかりで出口がない状態である。他人にいってもどうせ分かってもらえないと思い、暗い話はウェルカムじゃないと遠慮して明るく振舞う辛さ。」
そういう人に
「あなたを見捨てはしない、と呼ぶ叫ぶ本願のはたらきがあなたに向かって届いているよ、とその声にしっかりと耳を傾けてごらん、そして阿弥陀仏の願いを心に受け止めてごらん。すーと、安らぐ世界があるよ。大きなあなたの悩みがちっぽけなものに見えてくる世界があることを教えてもらえるよ。」
といえる摂取不捨のご利益を「他力本願のご利益」と
親鸞はいっている。
 
田中教照師は「親鸞のいいたかったこと」という本を書いています。
http://bookweb.kinokuniya.jp/htm/4061922602.html