中日新聞「弘法も筆の誤りというのは事実をのべたものではなく、“たとえ”である。だから弘法がではなくて、弘法もとなっている。」と書いて、『弘法も筆の誤り』がどんな文字をいつ、何処で間違えたか番組で使いたいからといって調べていたテレビ局の女性を「いずれどこの大学を出た才媛であろうに、こういう無知をさらけ出して恥ずかしくないのだからおそれ入る」 と扱き下ろしていました。
この言葉が記事を書いた志村清一という人が言ったのか、引用している外山滋比古さんが言った言葉なのか分からないように書いています。
『弘法も筆の誤り』については、今昔物語にある「空海天皇からの勅命を得、大内裏応天門の額を書くことになったが、『応』の一番上の点を書き忘れてしまった。空海は掲げられた額を降ろさずに筆を投げつけて書き直したといわれている。」が有名です。
因みに現在残っているこのことわざの意味は「たとえ大人物であっても、誰にでも間違いはあるもの」ということだけであるが、本来は「さすが大師、書き直し方さえも常人とは違う」というほめ言葉の意味も含まれているということです。
 
しかし、こういう説もあります。
「漢字の点を忘れたのを後から書き足したと言うのがありますが、それは正しくはありません。古くからの著名な中国書家をはじめとして、漢字の点画を意識的に省略したり加えたりは、しばしば行われています。つまり専門家の書家の字でさえ点画の加減があり漢字の書き間違いではないのです。
弘法大師空海)が最澄に送った有名な書状である「風信帖」の中の八行目下段に「量商」とありますが、これは「商量」とすべきで誤りです。これが弘法も筆の誤りの出所です。」
 
少なくとも確実に「弘法も筆の誤り」はあったわけで、調べれば分かることなのに何故このような意見が編集局デスクに書かれたのかが?です。
戦場カメラマンのことを「元戦場カメラマン」と名乗ってくれないかという意見も、受け狙いとしてはOKですが、本人は今日の番組で「2011年は激動の年となる。近いうちに戦場に行かなければならない」というようなことも言っていました。
この記事は筆が滑った「弘法も筆の誤り」だったのでしょうか?原文はこちらhttp://www.chunichi.co.jp/article/column/desk/CK2011010802000011.html
 
てらまち案内人をやっていると、質問やら説明やらしてくれるいろいろな観光客がいまして、先日の“てらまちウォーク”のときに「『弘法も筆の誤り』の出所も知らないで案内人をしているのか」と怒られたので早速調べて欲しいという反省があり、自分も知った次第です。