戸田信行師の法話を聞かせていただきました。
水の美味さをどう伝えるかといったら、以外と難しいことに気がつく。
酒好きだった若山牧水
「それほどにうまきかとひとの問ひたらば 何と答へむこの酒の味」と詠んだ。
「松島や ああ松島や 松島や」は、 松尾芭蕉が『奥の細道』で松島を訪れた際に、
あまりに絶景なので句が浮かばず、この句を詠んだという句である。
(実際は狂歌師の田原坊の作だという)言葉では言い表せないということもあるのである。
 
法を説くためには、言葉を使う。
言葉にならない真実をどう伝えたら良いだろうか。
親鸞聖人は、言葉にならない真実そのものをとく場合には、
「竊(ひそ)かに以(おもん)みれば、…」といい
教学を述べるときには、
「謹んで○○を案ずるに、…」という言葉を使っているという。
そのような捉え方は初めて聴いたが面白い。
 
世間で言う「聞く」は、分かるために聞くということである。
つまり、分かったら聞く必要はない。
仏法の「聞く」は、分かっても分かっても聞く、それが「聴聞」である。
分かっただけでは、まだできないからである。
仏法を聞きぬくことを「仏法を習う」と言う。
習うことで大事なことが身につく。
何度も練習して、訓練して、習わないとできるようにはならない。
しかし、一度身についたことは、普段知らず知らずにできるようになる。
(例えば、車の運転だとか、九九の計算など)
では、仏法を聞いて聞いて聞きぬいていくと何が身につくのか?
 
それは、仏(如来)の正見が身につくのだ言う。
 
何となく分かるような気がしました。(まだまだ聞き続けないと身につきませんが。)