去年は聴きにいけませんでしたが、「通夜伝道」はこれで3回目。
最初は法話に慣れていないせいかとも思いましたが、
4年経ってもなかなか楽しい法話とはならないようです。
10人の先生方も一度後ろに座って、自分たち全員の法話を聴いてみて、
みんなどのようにして聴聞しているかを体験すれば
もう少し聴く人の身になった法話ができるのではと思ってしまいました。
中には気づかせて頂けたり、考えさせて頂ける法話もありますが、
過半数が我慢の法話では、説教使を育てるといっても厳しいものがあります。
最低5人くらいは、なるほどと思える何かがないと…。
 
一部を切取っては悪いのですが、
仏法を聞いていない家はしっちゃかめっちゃかで夜逃げした檀家もいる、
熱心でないからそうなるというようなことを話されたけど、それは新興宗教の言うこと。
熱心でないのは誰のせいと言いたいです。
そのまえに延々と、自分が悪いということに気づくのは難しいという話をして
最後がこれでは、法話自体が破綻しています。
いつも時間をオーバーする人もいますが、3分くらい早く終わっても
文句は言いません。しかし1分オーバーすれば他の人にも迷惑が掛かるし
聴くほうの疲れも倍増します。それが10分近くとなると時間は有って無いようなもの。
親鸞聖人に出遇わせて頂くとこんなに早く時間が立ってしまうのですね」とか言って、
途中でもサッと止めるのが礼儀ではないかと思います。
話の止め方はあらかじめ決めておけばいいし、
(「この続きが聴きたい方は自坊に是非聴きに来てください」でもいいです。)
別に話が途中で終わったとしても、まだ9人もいるんですから全く支障はないと思います。
(逆に「そこで終わらないで」という要望があればたいしたものです。)
そして、次回は30分で纏められるように努力すればいいことです。努力してください。
  
欽ちゃんが地デジのコマーシャルに出たとき、
これだけは言いたかったという言葉があったそうです。
それは、「勝手に変えちゃってごめんね。」
 
「長い時間聴いてくれて、ごめんね。でも、これだけは言いたいからもう少し聴いてね。」
というものがありません。悪く言うと「聴け」といった雰囲気のものもあります。
長い時間で集中も切れているだろうから、分かりやすく面白く説くから、
これだけは押さえてちょうだい。30分で自分はこれが言いたい。これに共感してくれ、
そして明日から一緒に歩んでいこう、といった努力や気迫が全く伝わってきません。
どうも、説くことに精一杯で聴いてもらっていることまで気が回らないかのようです。
 
ちょっときついことを書かせて頂きました。
聴き方が悪いと言われればそれまでですが、今のままでは新しい聴聞客はどうかな?
もっと飛躍的に、聴かせる法話の腕が上がることを期待しています。
もちろん内容を伴ってのことです。
(内容も「報恩とは念仏を返すだけ」とか、「自力と努力は違う」とか、
「とにかくみんな私の国に生まれてください。でないと仏になれない」とか
みんないい加減に言葉を使っています。言葉はあっていても感覚が違うような気がします。
もっとよく内容を吟味して欲しいと思います。)