「今、ここに生きる仏教」第4回p117
大谷光真
「今日の対談に先立って、上田さんからご質問をいくつかいただいていたのですが、
その中の「仏教者には何が必要なのか」という質問について非常に考えましてね。
はたと思いついたのは、「修行」が必要だと。
上田紀行
「修行を否定する真宗の中でそれをおっしゃるとは!」
大谷光真
「こう言うと、真宗の中だと「真宗に修行はない」とか、禅宗のかたなら、
真宗の坊さんによけいなことを言われる必要はない」とか言われますが、
私が言いたいのは、その宗派で決まっている修行ではなくて、人生の修行
が足りないということなんです。
 この世に起こっているさまざまな問題を、身近に見たり聞いたり体験したり
するという経験が乏しいと思うんです。ですから答えが抽象的になってきて、
そんなのは聖道門の慈悲だとか、仏教の教団のすることじゃないとか、
そういう反応になってしまう。現実に起こっている人々の悩みや苦しみを
自分のもののように感じ取れる、そういう生き方をすれば、もっと柔軟な
対応がとれるのではないかと思います。ところが、現場を抜きにして理屈を
先に立てますから、どうしても食い違ってしまう。
 私もお寺に入ってからはそういう機会が非常に乏しいので、人のことを
言えるかという問題があるんですが、それを補うために、新聞を読んだり、
あるいはマスコミに出ないようなことを書いた書物を極力読んで、さまざまな
問題を学ぶように心がけてはおりますが。
上田紀行
「そういう意味の「修行」ですと、よく理解できます。が、僧侶たちに対する
実にキツイ発言ですね…。
大谷光真
「上田さんの本にあったと思うのですけれど、観音様ですね。観世音、世の声を
聞くという。親鸞聖人も「観音勢至…」と御和讃にうたっておられますから、
親しく感じていらっしゃったにちがいないんですけど、われわれの教団の説教には、
観音様という言葉はほとんど出てきません。礼拝の対象は阿弥陀様一仏ですから、
観音様に直接は用がないというのは当然だと思います。ただ、われわれが学ぶ姿勢
というか、目標にする生き方の一つとして、世の人の声を聞くという観音様の活動
の姿というのは、非常に大事なのではないかと、つい最近思いはじめたんですね。
上田紀行
「たしかに、真宗に限らずお坊さんと会っていると、修行が足りないなあと
思うことがあります。大学の先生もそうで、人間として修行が足りないなあと。
これは自戒の意味も込めてなんですけでども、そういう感じをすごく強く持って
います。
 大学の先生と僧侶に共通するのは、学生や信徒さんが「へへーっ」って聞いて
くれることですよね。大学の先生の場合は、「へへーっ」って聞かないと単位が
取れないから、みんな聞いているふりをしている。授業が終わってから、
「今日はつまらなかったな」とか「俺、寝ちゃったよ」とか、「単位が取れる
までの我慢、我慢」とか、そんなことばかり言っている。お坊さんの場合も、
お座布団の上に座って話しだすと、みんなが聞いたふりをしちゃうので、
そこだけでなにか世界がわかったような気になってしまう。
本当に修行がたりないなあと思います。」
 

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こういうことを御門主が言うことに意義があると思います。仮にそこらの人が言えば
「自力尽くして修行してたら〜」と言われてしまう。そうではない。真宗のすごいところは
「やらずにはおられない」という世界が開けてくるところだと思う。そのためにも
『この世に起こっているさまざまな問題を、身近に見たり聞いたり体験したりするという経験
=修行』は必要なことである。
大谷光真氏の書いた「あとがき」に「せっかく恵まれた機会と考え、この際、日頃
考えている事をあまり遠慮しないで述べることにいたしました。
少し口が滑ったところもありそうです。」
とありますが、もっともっと口を滑らせて、
危機感の無い僧侶をハッとさせてやってください。
 
まだまだハッとする発言がありますので、第5回に続きます。