清澤満之の語録で「戦争に出かけるもよい」と言っているものがあるそうだが、それはどんなものですか?という質問がありましたので、「宗教的信念の必須条件」の全文を書き写しておきます。個々に感じ取ってください。

 宗教的信念の必須条件 『清沢満之先生のことば』 大河内了悟・佐々木蓮麿共編p.25
 私は常に思う。世の人の多くが宗教的信念を求めつつも、容易に安住の地に達し得ないのは、明らかに此の必須条件が判っていないからであると。されば、その宗教的信念の必須条件とは何であるか。
 私の実験から思うて見るに、宗教的信念を得ようとするには、先づ始めに宗教以外の総ての事々物々を頼みにする心を離れねばならぬ。自分の財産を頼みにし、自分の妻子朋友を頼みにし、自分の親兄弟を頼みにし、自分の地位を頼みにし、自分の才能を頼みにし、自分の学問知識を頼みにするようではならぬ。如何なる事物をも頼みにしないというようにならねば、なかなか宗教的信念を得るようにはなれまいと思う。家を出で、財を捨て、妻子を顧みないという厭世の関門を一度経なければ、本当の宗教的信念を得ることは出来ないであろう。
 真面目に宗教的天地に入ろうと思う人ならば、釈尊がその伝記もて教えたまいし如く、親も捨て、妻子も捨て、財産も捨て、国家も捨て、進んでは自分そのものも捨てねばならぬ。語を換えて言えば、宗教的天地に入ろうと思う人は、形而下の孝行心も、愛国心も、その他仁義も道徳も科学も哲学も、一切目にかけぬようになって、始めて宗教的信念の広大なる天地が開かるるのである。
 かく言えば、或いは問う者があろう。それでは宗教を信ずるには、家を出て山林にでも隠遁しなくてはならぬか、と。私は思う、誰でも釈尊と同様に必ず一度は山林に隠れねばならぬという訳はない。山林に隠れてもよい。身体が家にあろうと山林にあろうと、商売して居ろうと軍隊にあろうと、それはどうでもよいが、ただ一つ肝要なことは、心にこの世の一切の事物を頼みにせず、一心専念に絶対の如来に帰命することにある。
 一度、如来の慈光に接してみれば、厭うべきものもなければ、嫌うべきこともなく、一切が愛好すべきもの、尊敬すべきものであって、この世の事々物々に光りが放つことになるのである。ここに到って宗教的信念の極致に達したものと言わなければならぬ。故にこの境地に入った人は、妻子があって邪魔でもなければ、妻子が死んでも悲みに堪えぬということはない。肴も喜んで食うが、食えないからとて困ることもない。財産を有しても、別にそれを頼みにもしないが、貧乏になったからとて困りもしない。功名の地位を得ても得意にならぬが、得られぬからと言って別に世を怨むことはない。また知識を求むることもあろうが、知識があるからと言って誇りともせねば、無いからと言って卑下もしない。立派な家に住むことがあっても、さほど喜ばないが、山林に野宿しても別につまらぬとは思わぬ。宗教的信念を得た人を無碍人と称するのは、この有様を言ったものだと思う。
 ここに到ると、道徳を守るもよければ、知識を求むるもよし、商売するもよければ、政治に関係するもよく、漁猟するもよければ、また国に事あるときは銃を肩にして戦争に出かけるもよいのである。