『我 必ず聖に非ず。彼 必ず愚かに非ず。共に是れ凡夫(ただびと)ならくのみ。』
お互いに、ご縁に左右され煩悩に振り回されて生きているので、時には正しいことを言うこともあるし時には間違うこともある、そういう凡夫(ぼんぶ)同士なのだということを決して忘れるな!という聖徳太子の呼びかけです。
こういう智慧のない私たちは、そういう場面で、結局は自分と違う感性や意見の持ち主を裁き、その言い分に耳をふさぎ心を閉ざし、つまりは他者を拒絶し排除し、気が合う意見の合う仲間同士だけの狭い世界をつくって、その中に閉じこもっていってしまうのです。
このような私たちの独善的で閉鎖的な生きざまを『大無量寿経』は「胎生(たいしょう)の者」として問題にしています。
…中略…
気の合う仲間同士の慰め合い、傷の舐め合いのようなところには、人を真に目覚まし、変革し、独立者たらしめるものとしての仏法は、ありえないのです。
…中略…
阿弥陀なるもの(無量寿)に出遇って、自分自身の自我心の狭さを照らし出された者は、愚者たる自分に帰されて、そこに真の大地を見出して立ち上がるのです。
 寺報より引用
 
ここから私感。
普遍の真理たる法は、時代を超えて人々を目覚めさせ続けているのに、その働きに気づけないのが凡夫なのです。
死出ずる道を求めた者が、真理の法に目覚めて救われるのでしょう。その普遍の真理たる法に気づける可能性を極めて高くしてもらえる方法が、念仏申す、ということなのではないでしょうか。