「Aさんが死んだのは、そもそも生まれてきたからだ」という言い方をすることがあります。無常を分からせるための方便かと思われますが、やっぱり無理があります。「そもそも生まれてきたからだ」というのはすべてのことに当てはまるからです。嬉しいのも生まれてきたから。辛いのも生まれてきたから。「Aさんが死んだのは、そもそも生まれてきたからだ」という命題には意味がないのです。「飛行機が墜落したのは、重力というものがあるからだ」というのに等しいわけです。また、生まれて死ぬというのは自明の理で、朝が、昼や夜の原因ではないように、生まれたことと死ぬことには直接的な関係はありません。
 因果関係とは、森羅万象に対する「なぜか」という問いではなく、「起こってほしくない」という思いを込めて、ある現象を見るところに発生する概念だそうです。通常、平穏な場合「なぜ平穏なのか」という原因を探そうとはしません。死とは逆に、今日も生きている原因を問いません。
 Aさんが生まれてこなければ、死ぬ以前のすべての経験が不可能になります。死ぬという、起こってほしくないある特定の現象を引き起こす原因とは考えられないことになります。
 なぜ、意味のない「Aさんが死んだのは、そもそも生まれてきたからだ」という言葉が意味を持つのでしょうか。そう考えることが癒しになるからです。癒しは意味のないことが一番のようです。じっと空を見たり、海に向かって叫んだり…。みんな過去の出来事がもはや取り返しがつかないことを知っているのです。それにもかかわらず「諦めがつかない」。何らかの決着をつけようとするとき、人はいずれ死ぬ(形あるものはいずれ壊れる:諸行無常)と納得するより仕方がないのです。仏教的なものの考え方です。