仏教の極意とは、『開方便門示真実相』の八文字に凝縮されるという。
 意味は、「当たり前のことを当たり前に行なう人になるために方便の門を開け」ということである。
 「方便」とは、手段、まにあわせ、手立てである。仏教用語としては「仏が衆生を教え導くための巧みな手段」「真実の教法に誘い入れるために仮に設けた法門」というようなことである。方便の「方」はその場に最も適した考え方、「便」はそれを用いて事を処理することでありますから、すべてが満足する結果になるように運べ、ということである。
 そのためには、「大愚」であればよい。大愚とは、自分を無にするということ。
 仏とは何か?と問われれば「大愚」の極意を体現する人ということになる。すなわち、真実をそのままに受け止めて、真実に対応する最も適切な所作のできる人−これを仏と呼ぶのである。
 
 では、どうしたら「大愚」になれるのであろうか?