先日の西蓮寺様の法座でも何度も繰り返されていることなのですが、人間は自分に都合のいいことを善と呼び、都合の悪いことを悪と呼ぶ。そして、善が続けば「貪欲」の煩悩が、悪が続けば「瞋恚」の煩悩が起こる。どちらにしても迷いの世界をさまようこととなる。何故か?人間の眼には本当の有り様は見えていないからである。それはまた何故かと言えば、人間は真実を知らないからである。それが肉眼(げん)の世界である。それを無知=無明=愚痴という。それに対して智眼とは、言葉に対応する実体はないということ。それを無我と言い、縁起と言い、空と言う。
三毒の煩悩のことを小池龍之介の「煩悩リセット稽古帳」には詳しく分析し、誰でも克服できる方法を提示している。仏教より仏道ということに重きを置き、仏道は宗教ではない、お釈迦様が見抜いた心理学であると言う。私たちの生活に役立つ方法なのだときっぱりと言っている。自分はそうだと思う。そして、みんなが望んでいるのは信仰の仏教ではなく、仏道(哲学、心理学)の仏教なのだと思う。
そこのところをうまく使い分けねばならない。入り口は仏道で、熟成されて信仰となる。初めから信仰できるものは少ないと思われる。法話真宗の話なのか娑婆の世間話なのか、よくわからないときがあるが、話し手がそこのところを区別していないからだと思う。真宗の弥陀の浄土観と衆生の心の癒しとの間にはどうしてもギャップが存在する時がある。
例えば、足が悪くて一人で歩けないお婆さんが、何も仕事ができなくて憂鬱な日々を送っていた。弥陀のお慈悲ではそれはそれで尊いのだと説く。しかし、そのお婆さんでもできるモーニングコールのボランティアをやり始めたら、生きがいができて今では朝早くに起きて、モーニングコールの時間を待っていると言う。人間はやっぱり人のために仕事をしないといけない、というような法話があった。村中のみんなができることを書き出して、お互いに仕事の貸し借りができるシステムを役所も協力して作っている。
ここまでくると、生きがいの実践方法で、宗教でも何でもなくなってくる。しかし、聞きに来ている人たちはそんな明るい話や、役に立つ話、涙の人情話などが聞きたいのである。浄土の話、親鸞聖人、蓮如聖人の生涯を聞きたいのではない(休憩中にあからさまにそう言っていた人もいた)。だから、そんなみんなが聞きたい話をすれば良い。けれども、それは方便だと話し手が気づいて話さねばいけないと思う。そうしないと癒しだけで終わってしまい、法話にはならない。入り口は広く、目的地は一つ、そんな法話があちこちで聴聞できると良いと思います。
まあ、思っていることを少し書かせてもらいました。