ひとは、無性に欲しいものがあり、それをほとんどの他人もまた望んでおり、しかもそれを手に入れることが可能な場合、確実に不幸になる。
 
人生において自分の欲するものを獲得するためには、たとえそれが正当なものであっても、膨大な犠牲を必要とする。
 
圧倒的なマジョリティを形成している善人集団の中に入るように強制され、執拗にかつ綿密に「やさしさ教」や「思いやり教」あるいは「みんななかよし教」の教徒になるためのマインドコントロールが施される。そして、きみは「みんなと同じ」という安心を得て、みんなと同じように考え、みんなと同じように願い、みんなと同じように喜び、みんなと同じように考え、みんなと同じように怒り、そしていつしかみんなと同じでない人を軽蔑し、排斥し、そして……みんなと同じように死んでいくのである。
きみはそうなりたいだろうか?
そうなりたくないのなら、きみは強くならなければならない。しかし、その道もまた険しく苦しいはるかな道なのであり、しかもそれを達成できたとしても、幸福がきみを待っているわけではないのだ。
そのことを承知のうえで、はたしてきみはその道を歩きつづけることができるのだろうか?
 
中島義道著「カイン」の「はじめに」の中の一説である。
その後の章は1.どんなことがあっても自殺してはならない。2.親を捨てる。3.なるべく人の期待にそむく。4.怒る技術を体得する。5.ひとに「迷惑をかける」訓練をする。6.自己中心主義を磨きあげる。7.幸福を求めることを断念する。8.自分はいつも「正しくない」ことを自覚する。9.まもなくきみは広大な宇宙のただ中で死ぬ。
何となく真宗法話で言われることに似ていると感じるのは自分だけでしょうか。真宗と哲学の思考の大部分は似ているのだと思います。違うのは浄土の世界を信じるという世界観だけ。そこが宗教の本質なんですが…。
どうも現代人は頭での思考が優ってしまうのは仕方がないのでしょう。「頭を取れ!」「最高ですか?」とやっていた宗教?もありましたが、教祖にとっては何も考えない信者が一番ありがたいわけで、「無我」なることを行として取り入れてうまく利用したと言えるでしょう。
今風に浄土の世界観を説ける、頭で共感させることができる、それこそそんな技術(力量)が宗教家には必要なのだと思います。