本の話題の続きになりますが、谷沢永一著「人間力」、”にんげんりき”と読みます。著者谷沢永一(たにざわえいいち)氏によると、この「人間力」という語彙を見事に活用したのは司馬遼太郎だという。また出てきた司馬遼太郎といった感じだが、『風の武士』という作品にこんな場面があるそうです。
早川夷軒という男は、ふしぎな魅力をもっていた。一種の、人間力というべきものかもしれない。
(妙なやつだ)と柘植信吾は思う。
夷軒は、ほくほくと膝をさすりながら、
「これで、やっと一安心」
 とよろこんでいる。悪党かと思えば、根っからの親切者のようでもあるのだ。
 ゆらい、人間力というのは、口説の徒や策謀家にはない。誠実で容器で頑固な男のみがもっている磁力のようなものだ。信吾は、自分の最大の敵である夷軒の磁力に、ふわふわとかかってしまったようだった。

 この引用を読んだだけで、自分は親鸞聖人と弁円の出会いを思い浮かべてしまいました。そう考えると、親鸞聖人にはとてつもない人間力が備わっていたのだろうと…。
 著者は「読者は現在あるいは過去、人間力としか言いようのない存在感のある人物を、もちろん男女を問わずであるが、噂を聞いたり見かけたり直接に話し合ったり、そうした印象の深い経験をお持ちであろう。その人間力をかたちづくっている条件を考えてみたい。」と言う。
 自分がそんな存在感のある人物にあっただろうかと思うと、若い頃新神戸名張工場に応援に行ったときお世話になった総務課長さんは、この人は大きい人だなあと感じました。その後十数年たって社長になられたとき、なるほど当然といえば当然、みんながそう思っていたんだと納得しました。小さい人は本当にたくさんいますが、そのようなスケールの大きい人は滅多にいないので、リアルタイムでこの人が師となりうる人とは誰もが思えないのだと思います。仏教ではすべての人が菩薩であり、鏡であり、先生であると言いますが、実際の社会では?かも知れません。意識の上ではすべてが先生は正解ですが、技術的なことに関しては処世術も含めて、その道を歩んでいるものでないと師とはなりえません。
 「人間力」を身につけることは全ての人にとっての課題でしょう。そのためには「人間力」を研究することが必要です。仏教と実践、面白いですね。