中島義道著「『哲学実技』のすすめ」(2000年12月初版 角川書店)を見ていて、その目次は
1.哲学することと生きること
 「からだ」で考える
2.健全なエゴイズムを育てる
3.「不幸」を糧にして考える
4.あらゆる「悪」を考える
 「ほんとうのこと」を語る
5.「きれいごと」を語らない
6.他人を傷つけても語る
7.身の危険を感じても語る
 自分自身になる
8.精神のヨタモノになる
9.偉くならない
10.自分から自由になる
 
これらのことは真宗の仏教にも共通するところが多い。例えばここで言っている「からだで考える」とは知識の伝授とか頭で考えるとかではなく、生きているまさにそのことで、相手を傷つけ自分も傷つく苦悩の中から何かを学ぶ、五感をとぎ澄まして、自分の良心や道徳的感受性にも耳を済まして考えることだと言う。水泳も絵画も理論や解説ではなく、あくまで「実技」が大事であって、「哲学実技」ということを提唱し、実験してみよう(実技講座自体は創作かもしれない)という設定で書かれている。哲学評論家ないし哲学研究者ではなく、哲学者を養成しなければということである。これと同じことは仏教に関しても言えるであろう。
今、法話の主題を探すためにいろいろ探っているのですが、この辺に絞っていこうかと考えています。「不安に立つ」ということについても気がつくことがあり、なんとか30分くらいの話にはなりそうです。
ちなみに、この本のサブタイトルは「−そして誰もいなくなった…」です。純真に追求していくと誰もついていけない世界に入ってしまうのか、先生の独断についていけないのか。仏教的な真理の追求ということでは孤独であろうと推測されるので、同じような境地とも考えられるが、それこそ「からだで考えて」実感(共感)できるかどうか、常に意識しなければならない。

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加藤諦三著「不安のしずめ方」人生に疲れきる前に読む心理学 2004年9月第1刷発行PHP研究社
この本を読んで「不安に立つ」という意味を少し考えることができた気がします。思ったことは「不安に立つ」=(真の)凡夫ではないかということでした。(真の)とつけたのは本当の意味のとあえて言いたかったからです。
不幸を手放さない人たちということが出てきます。人は不安を避けるために、死に物狂いで不幸にしがみつく。不安を突き抜けて先に行くよりも、今の慣れた不幸の方が生きやすい。人は不安だからこそ、今の自分に固執する。
我々がよく言う凡夫とは、この不幸の状態、今の自分に固執した自分を言っていると感じました。本当の意味での凡夫はそこから這い上がって不安を突き抜けていこうともがいているもののことではないかと思ったのです。と、考えてみれば「不安に立つ」とは「凡夫宣言」ではないかと思います。
不安を突き抜けて、生死出ずる道を目標に精進している限り、その意味では菩薩です。あるほんの薄皮一枚のところで、凡夫から菩薩へと変わる地点があるのだと思います。覚者(悟った者)とは菩薩の最先頭者のことかも知れません。その(善智識・先生の)後を追っ掛けて行くといずれ我々も覚者に近い存在になれるのです。そのためには、目標に向かって絶えず行動していかなければなりません。そうすることによって、昨日までできなかったことが、だんだんできるようになるのです。人間の一生とはそんなものではないでしょうか。この世を去るときに、自分の人生で一番素晴らしい状態で逝けるようになることが、宗教、特に真宗の功徳だと思います。