春日了という人の「心に劇薬を」という本を手に入れてから、仏法と日常生活の接点とか両立とかいうもののヒントを掴んだようで、ずっと仏法の生活への役立ち方、そんなことを考えていました。
 そうしたら最近「『人がいい人』は『いい人』か」森政弘著を読んで、アッそういうことかと何かわかったような気がしました。
 そして、今日西蓮寺さまの常例法話で、講師の先生が「仏法とは花を育むお日様のようなものです。」との言葉で、これだ、と分かりました。(分かったということにしておきましょう)仏教の知識を学ぶこと、これは個々の人がその力に応じて勉強し、社会に役立てなければいけないのです。また自分の生活の役に立てればいいのです。
 仏法は役に立つものではないとか、自分が得するようなことを考えているようでは仏法を聞く価値がないとか、清浄だとか、そんな言われ方をするので生活と掛け離れたところに仏法があるように思えていました。
 しかし、仏法とは、学ぼうとするエネルギーのようなもの、生きようとするエネルギーのようなもの、花にとっての太陽の光のようなものなんだと納得しました。ですから、仏法を学ぶ必要は全く無いのです。しかし、仏教を学ぼうとしたときには仏法が力となって働くのです。いや、仏法が働いて仏教を学ばせると言った方が良いかも知れません。これを悟ったとき、もう仏法を求める必要は無くなりました。二重構造は存在しなくなりました。後は、仏教を学べば良いのです、生活に役立てていくように実践するのみです。それは自分が自分でやることです。やったことには反応が現れます。それが喜びにつながるということは、歴史の事実なのです。それが、妙好人とか念仏者とかいう先達の形で証明されています。
 気張ってやることは、仏法の精神に反するとかいうことは全くナンセンスなことです、一生懸命できないということは、仏法というものが何であるかをまだ理解できていない証拠ではないかとも思いました。