講師の先生は自分でもくどいというご不満が出てくることがあると言っていましたが、なかなか先に進まず、あまりピンとくるところも少なかったので失礼だとは思いましたが、午前でご無礼させて頂きました。こういう聞き方が一番悪い聴聞だとは思うのですが、最近は割り切って時間を使うことにしています。一度は聞いてみないと分かりませんので悪しからずということで。こういう場合は、特に他の人と談合して自分の感覚を確かめたいとは思いますが、まあ仕方がありません。
 最近、自分は今の真宗教団のいう真宗とは若干考えがずれてきていると思います。今日の講演(法話ではないような気がする)は曽我量深師に大きく影響を受けた方の話だと思うのですが、頂いた資料が全くと言って響いてこないのです。
「ご先祖さまというものは、いつでも自分の中におられる。だからご先祖さまは、私たちの業は我が業である、我が宿業、我が責任である(と、私たちの全責任を引き受けて下さっているのである)。 
 だから自分自身が助かれば、ご先祖も助かるのです。自分だけが助かるのではありません。自分が本願を信ずることによって助かれば、ご先祖もまた助かるのです。
 (だから)一切のご先祖は、「どうかお前、助かってくれ」と願っておられる。無量無数のご先祖が、私たちの身の中、心の中(無意識の世界)に生きている。そして「どうかお前、助かってくれ、そして私を助けてくれ」とみんな願っておられるのである。 
(昭和42年11月曽我量深先生の聞き書き

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 これを読んで違和感を持つのは自分だけでしょうか。どうもピンと来ないのです。曽我量深師については全くと言っていいくらい知らないので、全体像から見た感じとは違うでしょうが、今日はあくまでも講演の内容の一資料なので、これだけを見ると、えっ、こんなことをまじめに深読みしないで言うのと言った感想です。言葉の使い方も紛らわしいし、勘違いも起こしやすい文だと思います。昔の法話では、このようなことも言って感情に訴えることもあったと思いますし、今でも感情が乗って来ればこのようなことも言ってしまうかも知れませんが、理性的な講演の形式ではこれはいただけません。
 決定的だったのは、「仏教とは仏になる教えであり、みんなから尊敬される存在になること、偉いおじいちゃん・おばあちゃんになる教えです」と言うようなことを繰り返し言われたこと。自分は真宗ではないと思いましたが、これが真宗なら自分の感覚がずれてきているということです。
 宗教、宗派、真宗、余宗とかの枠で考えると、それらの本当の教えがどんなものか分からなければ選択を間違えることになるのではないかと思います。真宗は数ある宗教の中で
昨日も述べたように、宗教求める人間のこころを追及する数少ない宗派の一つだと思っています。教団はそこを見つめていってもらいたいし、個人的には、真宗の教えを役に立つ教えに成り下げさせたいと思っています。ここらから、本当の真宗の教えから外れていきます。外れても役に立つ宗教を、救われる宗教を見出したいのが自分のライフワークとなるかも知れません。(以前絵解きは生涯続けられて良いですねと言われましたが、ご縁というものは分かりません。でも、考えることだけはいつでも、いつまでも続けられます。何とかこれというものを考えて行きたいと思います。)
 
 早速、考えたことというか気づいたことを書いてみます。
 私たちは「嘘をついてはいけません」とか「偽善的になってはいけません」と教育されます。その結果それを守れるかといえば、やはり嘘をついたり偽善的な行為を行ってしまいます。そして、後悔したり、今度は止めようと反省します。このような者を凡夫と呼びます。そして仏の救済の第一の目当てだと説いて凡夫の信心を呼び起こし(人気かも知れない)、救済(心のやすらぎ)をもたらすという構図だと思いますが、そこにあるのは精神的安心であり、環境の変化はありません。
 ある本を読んだときちょっと考えてみました。
 「社会的知性」と呼ばれる、人に好かれることに優れた能力を、もつ人がいるということ。それは、自分の本音を隠し、本心でなくともお世辞をバンバン言い、場の空気を読み、相手の心を推測できる能力であり、それを獲得するのも知性の高さだと言うのです。人を殺せとか、物を盗めとか、反社会的な行為を勧めているわけではなく、「社会的知性」の高い行動をすれば、人に好かれて社会活動を円滑に行えるというのです。経験的にそれは納得できます。
 そうすると、「社会的知性」の高い行動を取ると「嘘をつかねばいけません」「偽善的にならざるを得ません」。それは悪人です。でもこの世では、そのような悪人は居心地のいい環境で、安らかに人生を過ごせるのです。でも悪人です。嘘をつく偽善者です。それでも実際の世で救われるのです。
 親鸞聖人は世渡りがうまかったとは思えませんが、この例で悪人が実際に救われるという実例を挙げられます。「造悪無碍」のように救われるために反社会的行為をして悪人になれとは決して言わなかったでしょうが、「社会的知性」を磨けくらいの積極的な、自覚の上の嘘、偽善、これは仕方がないと承知していたのではないでしょうか。
 書いて最後に「だから悪人は救われる」という結論にしたかったのですが、親鸞聖人の教えに照らしてはやっぱり無理があります。私論として、「世渡り上手な悪人はこの世で実際に救われる」という結論にしておきましょう。

 仏法の十悪から離れることはできないのだから、積極的に利用しようということ。「つまらない冗談にもちゃんと笑ってあげるとか、名前を呼ばれたらすぐに返事をするとか、そういう些細なことに注意を怠らないようにしよう。それだけであなたの評判は、グッとよくなるはずだ。」
 しかし、つまらない○○にも付き合ってあげようをすでに破っているとか、こうすればこうなるはずだと思い込んでもそうならないとか、また元の木阿弥、堂堂巡り。難しい〜。