福万寺様で夜の勉強会がありました。宗教の3種の求め方について理解を深めました。それらは、(1)お願いのタイプ、(2)心がけのタイプ、(3)自分を知るタイプの三つだということです。もちろん、浄土真宗は(3)のタイプなのですが、世間では(1)(2)のタイプが主となっています。
(1)は宗教心と引き換えに、自分の欲望を満足させようとお願いするタイプ。
(2)は宗教とは、自分の欲望を満足させようとするものではなく、欲から離れ、自己中心的な生き方をやめ、理想的な人間になるため。教えを学び、修行するのだと理解するタイプ。
(3)は本来の宗教、自分の不完全さを自覚したところから始まるとするタイプ。宗教が私の役に立とうが立つまいが、間に合おうが合うまいが、そのことそのままが真実であるということが大切であるという立場である。自分の利益になることなら信じるが、そうでないものは捨ててしまえという自分の心を照らし出してくださる働きに出遇うことが「弥陀をたのむ」ということなのです。
 
 とここまで、説明のレジュメを読むと、(1)、(2)ははっきり行動がわかるのですが、(3)はそれでは何をしたらいいの?と問えば、具体的にはよく分かりません。うまくいくように祈祷したり、修行することは分かりやすいのですが、「自分を知る」などということはどうしたら完成なのか分からないことです。ソクラテス時代からの命題であり、どうなると自分を知ったことになるのか未だに分かりません。
 自我の拡大、我欲の追及を基にする心に気づけと言うことは、意味があるようで、無いようで…。
 金子みすずの「木」という詩が紹介されました。
 お花が散って 実がうれて その実が落ちて 葉が散って
 それから芽が出て 花が咲く そうして何べんまわったら 
 この木は御用がすむかしら。

 御用がすむまで生きて、生活して、死んでいく、ただそれだけの生き様。
 「死んだらしまい」では、穏やかには行き切れない、生きているうちが花であると、欲望に振り回される。
 浄土から生まれて、浄土に帰る。用が済んだら浄土に帰る。そんな風に考えられれば淡々と生きていられる。生死を超えて生きていける。それはどんなことが起きようとも、それを「気づき」の御縁と受け止めていける態度である。
 最後に安田理深師の言葉で締めくくられた。
 「私が必要とすることではなく
  私に必要なことが起こってくる
  私が必要とするものではなく
  私に必要なものが与えられている」

 
 さて、私たちは何をどうしたら良いのでしょうか?