「あそこの八百屋でリンゴを売っていた」と言ったときにそのリンゴはナシではなく誰もがリンゴという種類の果物を想像するだろう。
 しかし、感覚が発達してくると、リンゴ2個と、ナシ2個が机の上にあるとき、「違うものが4つ」として認識される。このリンゴとあのリンゴは違うのである。
 そう考えると個性を重視する教育とは、学生が個性的になるのではなく、教師が個性を認識できるようになることではないだろうか。学生一人一人は、明らかにリンゴより個性的である。
 さて、野菜の話をすれば、スーパーで売っているキュウリは、まっすぐである。そのまっすぐなキュウリが商品になり、高い値段が付く。一方、曲がったキュウリは商品にすらならない。
 味は同じなんだから、曲がったキュウリも安く売ったらどうかと言う。そこでは値段が違うのだから、同じものではない。曲がったキュウリも曲がったキュウリとして区分けされて、同じランクの安い値が付く。
 やっていることは同じではないだろうか。自分の都合で、曲がったキュウリが気にならない人が、まっすぐなキュウリなんて自然ではないとか言っている。曲がったキュウリが出来てしまう人も出来ればまっすぐなものが作りたいに違いないのだ。あえて、それが自然で曲がったキュウリが良いという人がいれば、まっすぐなものと同じ値段かそれ以上で買うつもりならそれも筋は通る。
 
 もしも、曲がったキュウリも売ったら良いのにという人は、キュウリ1本1本が味も形も違うという認識を持ったうえで、あえて区分けして形の悪いものも、もったいないのでいただこうと言った方がいい。
 曲がったキュウリが自然で、それが正しいという雰囲気を持ったときに胡散臭くなる。絶対的に正しいということはないのである。
 ・・・ということを考えさせられた。