午前中に善門寺様の春の永代経法要に行ってきました。法話は伊奈祐諦師。
 いつも聞いている話ですが、今の自分にはピッタリの法話でした。
 彼岸と此岸。此岸とはこの娑婆、娑婆とは堪忍土。娑婆=世間、というものは人間のものさしで動いている。人間のものさしとは、損だ得だ、あるだないだ、言った言わない、間に合う間に合わない、そんなものさしでしか見ることが出来ない世界である。
 堪忍土という苦悩の娑婆を生きるということは、浄土のいのちに支えられてしかできない、という。
 人間は比較してしか認識することが出来ない。夜があるから朝だとが分かる。暑いがあるから寒いということも分かる。苦悩の娑婆を生きてこそ、お浄土が分かる。御同朋の世界が分かるのである。
 そのようなことが素直に入ってくるのも、お寺の柱に永田やの日めくりが掛かっているからであろう。この光景を見ることが本当に嬉しいときである。30名近くのお参りがある本堂に永田やの日めくり。受け入れられていることを実感する至極のときである。
 すべてが人間のものさし。嬉しいことも悲しいこともすべて都合。
 歎異抄の13章を引き合いに出して、「さるべき業縁のもよおさば、いかなるふるまいもすべし」ということを終始説かれた。真の世界に触れる縁がなければ、それこそ何をするか分からない自分自身だという自覚が大事だということ。そういう自覚ができて苦悩の娑婆を生きるために「法話は聞き貯めるのでなく、聞き抜くこと」を実践するのが御同朋である。誰がではなく、自分が聞き抜くこと、それを再確認させられました。
 ここで問題です。
[次の真宗法語の○○に適当な言葉を入れなさい]
『私が我慢するという、その心が家庭を○○する』