全体会議が終わりました。今年のキーワードは『感謝』です。
 自分はここ数年、絶体絶命ということはありませんでしたが、何度となく困難な状況を不思議と過ぎ去らせていただきました。そのことについては不思議な感謝の念を持っています。
 そして、あとから考えて見ると、困難だと思っていた状況も、力と経験のあるものなら何のこともない場面だったのではないだろうか、と実感しています。
 困難とその人の実力が合ったときには、乗り切れるし、大きすぎる困難なら乗り切れない。それだけのことのようです。その人の実力、とは勝間和代さんが言っているように分析できるのでしょう。
 すると『感謝』の次元の問題ですが、自分の都合の良いことが起こったら感謝なのでしょうか。「自分に都合の悪いことにも感謝しなければなりません」と法話ではいいますが「それは自分を育てて下さるからです」と続ければ、やっぱり自分のために感謝しているのではないでしょうか。
 
 「ツキを呼ぶ魔法の言葉」があるそうです。
 ひとつは「ありがとう」、もう一つは「感謝します」。
 どう使い分けるかと言うと、何か嫌なことがあったときに「ありがとう」。何か良いことがあったら「感謝します」。
 イライラしたら、「イライラさせて頂き、ありがとう」、車で事故をしても「ありがとう」、親が亡くなっても「ありがとう」。何故かは、こう語っています。
 「嫌なことが起こると、また嫌なことを考えるでしょ。そうするとね、また嫌なことが起こるの。不幸は重なるというけれども、それは、間違いなくこの世の法則なのよ。だけど、そこで「ありがとう」と言うとね、その不幸の鎖が断ち切れちゃうのよ。それだけでなく、逆に良いことが起こっちゃうの。「災い転じて福となす」という言葉があるでしょう。どんな不幸と思われる現象も、幸せと感じる状況に変えてくれる。絶対にね。だから、「ありがとう」という言葉はね、魔法の言葉なのよ…。」
 「例えば、明日、晴れてほしいなぁ〜と思っていて、実際に晴れたら「感謝します」。たとえまだ起こっていない未来のことでも、「明日、晴れました!晴れさせて頂き、感謝します。」とか「1週間後、○○に合格させて頂き、感謝します」とイメージしながら言い切っちゃうと、本当にそうなってしまうのよ。何の疑いも不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込めばね。」
 こうなってくるとお願い祈祷の宗教っぽくなってきますが、人間の心の平安とはこういうものなんでしょう。「感謝します」でも良いじゃないですか。試しに言って見ましょう。
 人間は簡単に「感謝」できるものでもないのかもしれません。だからわざわざ感謝しましょうと言うのだと思います。だから、「すべてに感謝してます」とかあからさまに言う人にはちょっと不審感を抱いてしまいます。その人の経験やそれなりの苦労があって初めて感じられるのだろうし、まずそんなことを言わなくても日々の生活の中に、その喜びがにじみ出てくるはずです。どう見ても動物が歩いているような感じの人が口だけで感謝してもそれは信じられません。それも人の心の中のことですが…。
 言葉ではありません。
 逆に感謝の言葉をあえて使うときは、何か思惑があるときだと思ってしまいます。感謝もその人の人格を現すもので、感謝していても、してないように見える人もいれば、それ程感謝していなくても、すごく感謝しているように見える人もいます。
 それらのことを考えてみると、人間の活動の本質を自己自身で見つめ直す。それが「感謝する」意味ではないでしょうか。商売の場合には、お客様のためを思って、ベストを尽くすこと、これが感謝の現れだと思います。
 自分中心の感謝から、より深い意味での感謝に質が転換していくことを切に期待しています。(もちろん自己についてです。)そして、それを感じさせてくれるはたらきが念仏だとすれば、また一つの世界観が構築できそうな気もしています。またリンクしているところもあるようです。蓮如さんは報恩感謝の念仏としきりに言っています。
 
 「世間のものさし」と「仏のものさし」。まだまだ半分も分かってきません。