先日、念仏会に行ってきました。長息念仏(自分はこう命名している)を実践する斬新な会です。主催者は五会念仏の会というものを目指していて、昔の念仏方法を再現して同じように修行をしようとしている会のようです。どう書いても誤解されそうですが、ようは、真宗の坊さんも念仏しようよ、という会です。
 念仏会が終わったあとの勉強会で、「念仏に意義を持たせることを考えています。」と言うと、親鸞聖人も念仏には意義付けをしています、とのこと。「でも、歎異抄の第10章「念仏には無義をもって義とす。不可称、不可説、不可思議のゆえに」とありますが…」というと。「それは、覚え間違いか、書き間違いです。」と簡単に言ってくれた。
 「聖典の511頁に『他力には、義なきを義としるべきなり。』とあるように、無義は念仏ではなく、他力なんです。」という説明。…なるほど。その時は納得しました。
 唯信鈔文意には「この如来の尊号は、不可称・不可説・不可思議にましまして、」とあったりして、迷ってしまいますが、早く全体像をつかみたいと思っています。
 
 何にしても、念仏の意義は、昔のひともいろいろ考えていて、浄土宗の人に聞いてもそれは普通に受け入れられるとのことでした。「念仏は無義」とは、やっぱり書き間違えなのでしょう。唯円も罪なことをしたものです。