2/22(日)に絵解き法話があります。
 しかし、最近自分は「絵解き」の本体については全くといって興味が薄れています。「絵解き」というのは、親鸞聖人とか蓮如上人の御一代を掛け軸の絵を使って聴衆に説くものですが、それで感動させるとか何かに気づくとか、そのようなことは少なく、歴史的な知識に詳しくなるか、右から入って左から抜ける、そんなところなのでしょう。
 蓮如忌の法話を一緒に聞いていた人が、中休みの休憩で、「わしらは蓮如さんがいつ生まれて何やったなんてわからんでも、今の生活に密着した話が聞きたい」と言っていたのが率直な感想だと思います。
 「絵解き」の使命みたいなものがあるとしたら何なんだろうかと考えたときに、それは面白いこと、面白く親鸞聖人のことが学べること(今回は親鸞聖人絵伝なので)、これ以外にはありません。
 そして、面白く話しをするのには、ものすごくエネルギーがいることです。そのエネルギーが今は仕事の方に向いていますので、絵解き自体をどうにかしようという気が湧いてこないのです。
 では、代わりに何がやりたいかというと、お参りに来た聴聞者と一緒に考えるようなことです。ずっとずっと答えがないような問題について考えること。その過程を共有して、すこしでも答えのヒントのようなものを見つけられたらなどと思っています。今現在の問題について語り合い、法話が終了と同時に行動が変われるような何かを提供したいと思っています。
 それは、暗示とかマインドコントロールとかかも知れませんが、この社会に生きているものは少なからずマインドコントロールにすでに掛かっています。「そんなはずはない」とか「こうあるべき」とかよく思う人は、掛かりやすいのかも知れません。
 自分がやりたいことは、個々の人が生きる甲斐を見つけ自己肯定感が持てて幸福であるといえるような暗示です。その結果、行動が変わり、周囲が変わり、本当に幸福であったと気づけるそんなプラスの循環のきっかけを作りたいのです。
 ですから、問題のない人はすでにこの循環ができているのでしょうから、このような目的の法話は聞く必要がないかも知れませんが、先達として意見を述べてもらうことも有効でしょう。何にしても、いま困っている人が少しでも役に立ったと言ってくれるような話がしたいのです。こうなると法話ではなくて講演に近くなるかも知れませんが、念仏を意識していれば法話といっても良いと思います。
 今、行なわれている法話を見ても、これはおかしいということが多々あります。普通の人はそうは受け取らないのではないだろうか。真宗の独りよがり。強制すれば、りっぱなマインドコントロールです。それで良いのだと思います。浄土真宗も宗教なのだから。
 なら、もう少し人生の役に立つことに積極的に踏み込んだらどうだろうか、というのが自分の意見です。宗教(真宗)的考え方と実社会の生活(幸福感)の融合と調和。これは生きている以上絶対に必要な考え方だと思います。
 門徒にはそこをごまかして、立場上浄土とか言って、お庫裏では贅沢三昧のこの世を謳歌している。宗教者ならば、やはり思想と実生活を調和させなければならないでしょう。在家よりも在家らしい住職では、何をかいわんや、です。ごまかしを極力しなくていい生活。そんなところから幸福感は生まれてくるのではないでしょうか。持っているものに執着する必要のない心持ち。これらは暗示によってしか生まれないのではなどと思っている次第です。(ニセ宗教との違いは暗示を悪用しないこと。個々の成長の過程と捉えてもらえば良い)
 マインドコントロールとか暗示とか言う言葉を使っていますが、そんなことは簡単にできることではありません。マルチ商法などは暗示を使うし、催眠商法というものも、会社コンサルタントによる自己改革のための暗示もあります。要は使い方次第だし、素人が簡単にできることではないのですが、みんなで問題意識を共有し、共感したい、ただそれだけのことなのです。それは、自分の法話のテーマ『気づきと共感』の原点にもどることになるのです。