赤羽別院で2/6,3/6,4/23の3回にわたって真宗講座が開かれます。講師 池田勇諦師 講題は「報恩講和讃に聞く」です。
 まずは2/6の第一回が終了したのでそれについて報告したいと思います。
 具体的には「五十六億七千萬 次第六首に聞く」―親鸞聖人の弥勒観―という講題で話をされました。
 全体の感想を言うと、さすがということに尽きます。わかり易く説明をしてくれて、さらにそこに個々の味わいを持たせるという何とも言えない語り口に時間を忘れて聞いていました。予定した100余りの椅子席が足りなくなり、急遽前列に座布団を敷くという盛況ぶりなのもわかるような気がします。
(1)2首目の「すなわち弥勒とおなじ」ということ、これは教学的に一々訪ねていくと面倒なことになります、ということから話は始まりました。
 弥勒菩薩は大経では慈氏菩薩、阿弥陀経では阿逸多菩薩と呼ばれてお経に仏弟子として登場する歴史上の人という見方と、過去七仏に対する未来仏である伝説上の人という見方ができます。
 親鸞聖人はご消息を参照すると、善鸞事件以後に「諸仏と同じ」とか「弥勒に同じ」とよく言われるようになりました。
 「すなわち弥勒と同じ」は「便同弥勒」と書きます。便同弥勒は叫びと言っても良い。念仏で救われたということは弥勒菩薩と同じなんだという自信であり、念仏者として生きる誇りの叫び声なのです。
(2)内実はどういうことかというと、善導が明らかにされた「金剛心」(高僧和讃参照)のことである。等覚の最後心=金剛心ということである。
 52位の妙覚(悟りを開く)までに51位の位がある。十信・十住・十行・十回向・十地・等覚であり、十信は外凡、十住十行十回向は内凡(賢者)、十地は聖者=菩薩であり、等覚が弥勒菩薩である。それで弥勒菩薩のことを等覚補処の菩薩という。
 この等覚補処の菩薩(弥勒)になっても習気(じっけ)が残っているという。習気とは臭みだそうです。
 50位の位まで来るのに三大阿僧祇劫(≒無限)の時間がかかり、51位になるのにさらに百大劫かかるという。そして最後の一点を超える(習気を取り去る)のに五十六億七千萬が必要というのだから、その深遠な叫びを聞き取らねばならないのだ。
(3)親鸞聖人の弥勒観はというと「正定聚の機」=「便同弥勒」であった。
 親鸞聖人の教相判釈は、
 竪(じゅ)自力 
   …超(頓) 一気に=質的に 転じて変わること。
   …出(漸) 徐々に=量的  大分も少しも同じこと。本質的に変わらない。
 横(おう)他力 
   …超 同上
   …出 〃 
竪出…仏←凡 自力の積み重ね
私を立場とした私の努力の積み重ねを理想としている。(人間が何かに立ち向かおうとするときに必ずそのような傾向になる)
これは凡夫が仏に向かっていく道…身の事実=弥勒菩薩(聖道自力の手本)=等覚の金剛心

竪超…仏=凡  迷えば凡夫、悟れば仏の世界。
横出…仏→←凡 50:50の世界 定散二善の世界。どう思えば良いのかという思いをも        って聞いている。
横超…仏→凡  私の出る幕のない世界。凡夫には理解できない世界。

ということでした。続きは3/6と4/23にありますが、なんとなく講義は分かるのですが、仏の世界、悟り、念仏についてがもやもやしています。
念仏に意義付けしようという自分の試みは、仏→←凡 20:80くらいの横出の世界でしょうか。そんな格付け事態が無意味だということ。それはこの講義ではわかりませんでした。どのような者もすくい取る阿弥陀のお慈悲ということが便同弥勒と交わりあって、念仏しても自力の理想を求める弥勒と同じ、そして弥勒は五十六億七千萬年を待っているが、弥陀に依るものは一瞬にして(横超)五十六億七千萬年を飛び越えて仏と成らせて頂けるという自信と誇りをもって親鸞聖人は叫び声を挙げた。それが、この御和讃であり、先人が報恩講に使ってこられた理由でありますということでした。(第一回真宗講座報告終り)