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加藤智見師の「信じるということ (下)」が1/24の新聞に掲載された。
前回「大いなるもの」について次回に述べるということで終わったのである。
今回の冒頭にこのように書いてある。『「大いなるもの」と信頼関係を結び、その教えや励ましに導かれ生きることが信仰によって生きるということである。「大いなるもの」は、人によりさまざまである。』親鸞聖人の大いなるものは阿弥陀仏であったし、ルターの大いなるものはイエスであった。親鸞もルターも下記のことに気づいた。
- 自己中心の我欲が捨てきれず、名誉欲や自分の得になることしか出来ない
- 善行をしながら、この行の根底には自己愛やむさぼり以外の何ものもない
親鸞は、人間が仏さまを信じ切ることはできない。しかし、仏さまは自分を信じきっていると気づいた。
ルターはイエス自身が人間の罪を背負って十字架にかけられ苦しんでおられたことに気づいた。
「大いなるもの」に心をかけられ、見守られていることに気づき、感謝し、強く生きようとすることが共通であったのだ。無力な人間であることを自覚することによって「大いなるもの」に出会い、深い感謝と希望に満ちた人生を送ることができたという。
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最近、特に思うのであるが、誰か一人、たった一人で良いから、自分のことを理解していてくれれば、自信をもって生きていけると思う。いまのこの行動は、こういう信念から起こってくる行動である。「私はわかっているよ」という一人の理解者がいてくれればそれで救われるのである。
「大いなるもの」は、人によりさまざまである。ということは、加藤智見師のいう「大いなるもの」は絶対のものではないということである。自分はその考え方を支持しますが、考えてみれば、親や友人、身近に理解者がいれば、あえて「大いなるもの」という大そうなものを設定しなくても良いのである。そして、幸運な多くの人たちはそういう存在を持っている。そういう人たちに阿弥陀さまは空想の物語であり、全幅の信頼をおける現実の人にはかなわないのである。
不幸かどうかは知らないが、そういう存在を持たない自分は、「大いなるもの」を探し求めなければならない。「これで良いんだよね」、「今度はこうしたいんだけど」と妄想にも似た問いかけに、答えをかえしてくれる「大いなるもの」。この大いなるものは「それで良いのだ」としか答えてくれない都合の良いものである。
信仰も大事かもしれないが、現にこの世を共に生きている大いなるものを持つことがいかに大事で、難しいことか。宗教家はそこを避けて通っている気がしてきた。