思考は進歩していないが、昔あった本を取り出して再度読み始めている。1968年第1刷、丁度40年前の本である。山崎正一市川浩編『新・哲学入門』である。
 「われわれは、この世の中に生まれ、この世の中において生活し、この世の中で死んでいく。この世の中におけるわれわれの生活を正しく導き整えてゆくには、どのように考え、どのように行為したらよいか。このことについての正しい認識、聡明な知恵は、どのようなものであるか。これを求めるところに、哲学ははじまる。」
 哲学の目的のようなものは生まれ死ぬ間の生活の部分に重きがあるようである。生きていく指針のようなもの、その感覚は真宗に似ているようである。
 知覚認識についての項目に、「毎日見慣れ、知り尽くしていると思っていたものを、私は少しも見ていなかったのである。」「『ばら』とか『海』とか『カモメ』とかいうレッテルをはがして、純粋に色彩そのものを把握するには、少なからぬ努力と修練が必要であろう」「感覚がどれほど判断や感情によってくもらされているか」と言っている。見ているが、見ていない(会っているが出会っていない)とかレッテル(先入観)を貼るなとか、判断や感情で事実が曇る(都合でよくも悪くもなる)とか法話で言われていることである。哲学はここから「知覚するものと知覚されるもの」というような思考に入っていく。
 ここで芸術家の感覚なるものを例に説明をしているのだが、知識と芸術という関係は、知識と宗教と読み替えても意が通じるところがある。後期印象派が純粋感覚を追求したと言えば、仏教の各宗派の違いにも似ている。後段で芸術家のその違いをスタイル(大きな規則性や傾向)と呼ぶ言葉で説明している。宗派はスタイルなのだろうか?
 古くて新しい(と言っても自分にとって学問体系がなかったために新しいのであるが)知見が真宗の体系や関わる人の心理について学問的な説明を少しは可能にするのではないかと言う試みを2009年スタートさせようと思う。