今年の流行語大賞が発表になったようだが、そのノミネートに「おバカきゃら」があった。ヘキサゴンは最初の形から見ていたが、よく改良であそこまで持ちこたえたと思う。その一つの奇跡的なめぐり合わせが「おバカきゃら」であった。自分も何かほのぼのとしていいなあと思っていたが、最近ちょっと考えが変わってきた。
 今日の「Qさま!!」を見てもやっぱりある程度知識は必要であるし、勉強しなくてもいいではなく、した方がいいし、知識もなければ生きて行きづらいことの方が、この世では正解であろう。
 中学生クラスの漢字も読めない人に、裁判員をやらせる国というのはどうであろうか。ネットの掲示板には「性格的に変だと思う自分に裁かれる被告が可哀想」とか「面倒くさい」とかいろいろ書き込まれているそうだ。自分は「性格的に変だと思う」人はまず真剣にまともな判断を下すよう努力するだろうと思う。それよりも恐いのは「60年生きてきて善悪は判断できる。」と豪語する自称普通のおばさん(61)だ。アメリカの陪審員制は本当にどうやっているのかと思うけど、このこと一つとっても「おバカ」を売りにするような傾向は将来どうかと思う。
 何故、いまこのことが気になっているのかというと、浄土真宗の本当の教えは如何なるものか、結局、衆生には分からず終いではないかと思えてきたからである。
 「一文不知の」と何も分からない自分でありますが、そんな自分でも如来さまに救ってもらえる。文字通りのことがすでに現実になりつつある。浄土真宗の教えは「一文不知」でいいと言っているのではない。精一杯努力してもこんな情けない私でしかないところの救いであり、今の世にはそれとは全く違う「本願ぼこり」がはびこっている。親鸞聖人は本願を誇ってはならないとは言っていない。本願を誇らしく思うのも無理はないと言う。しかし現状には本願がない。ただ生きるために癒しを求めているだけのようである。
 12/1付中日春秋に「たった一つの命だから」の言葉の後にあなたならどうつなげますか?という問いかけをしているグループのことが載っていた。本にもなったそうで、その中の例が挙げてあった。
 「たった一つの命だから」
 「毎日楽しく笑え」「マイペースで生きる」「生きているだけでまるもうけ」「一人では生きていけない…」
 一般の人の答えである。真宗法話と同じようなことを言っている。でも、これを見て気づいたのは、どれも自分のことばかりである。
 そして気づいたことは、浄土教は小乗になりやすいのではないかということである。親鸞聖人もそのことに気づき、還相回向を取り入れたのではないだろうか。
 もちろん真の浄土仏教は大乗の教えであるが、その教えを実践できるものは大乗の菩薩であろう。だとすれば、上記のような醜態が衆生凡夫の本当の姿なのではないだろうか。「バカでもいい」とあきらめ、「善悪を知っている」と思い、「自分の極楽浄土」へまっしぐら。こんなもの同士の中で法話に意味があるのだろうか。「一日一善」「人のためにつくせ」そう叫ばなければならないのではないか。もちろん自分自身に。