自分の「道」を探そう
 あるおばあさんが81歳、今もそば屋でそばを作っている。70年近くそばと一緒に幸せに生きている。お客さんにおいしいそばを食べていただき、笑顔になってもらいたくて。私のそばは、私が打っているのではないのです。そばが、私の手に教えてくれる。ただ、その通りにしているだけです。と言う。
 (中略)
 子どもたち、探そう。自分にしかできないこと。一生、その道を求めて、幸せに生きることのできることを探そう。必ず、すでに君たちの中にあります。そして。それを一生継続しよう。ときには立ち止まってもいい、一休みをしても良いですから、焦ることなく続けよう。きっと君が老いたとき、君の中に喜びと力を与えてくれます。

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 感想記 
 10/20付水谷修先生の「明日を求めて…」の記事である。
 むずかしい、むずかしすぎる。年をとった今その言葉が真実だとわかる。自分の「道」を探そう、と呼びかけ激励することは悪くないと思う。それによって気づくものもあるだろう。でも、普通に生きている大人が、自分の「道」を歩いているだろうか。一生懸けてもよいことを見つけているだろうか。アンケートをとればそんな人は半分もいないであろう。
 この記事を読んだときに、自ら覚る道を切り開く出家修行者を思い起こしました。お釈迦さまは修行では覚れないと気づいた。自力で道を切り開けるものは1000人に一人、いや10000人に一人さえもいないと。継続することは修行です。好きなことを見つけられれば、継続できるかもしれませんが、好きなことばかりやってもいられません。それより何より好きなことが何かをまず探さなければなりません。
 このこと自体は人間幸福の道を示していますが、そこに乗っかれる人が少なすぎる理想の道です。もう少し地図なり、旅費なりの何か手助け(縁)が必要なように思います。そしてすべての人が自分の「道」を継続して幸せに死んでいけるようになるためには何が必要かを皆で考えなければなりません。
 すべてを対象にするか、1000人の中の1人を対象にするか。1000人の中の1人の場合には自分の「道」を行け、金メダルを目指せで良いでしょうが、自分の「道」を探すことを「道」としてしまっている人(自分探しをしている人)が出てきつつある現在、『自分の「道」を探そう』と言いっぱなしは無責任になる可能性があります。何とか継続できる道を探せるプロセスを確立してほしいものです。

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うちの娘は16歳のときに、なんにもしないで 生きるより 何かを求めて 生きようよという歌詞を聞いて、その何かがわかんないんだよ。と言っていました。
 当然だと思います。自分も48歳になってもわかりませんから。(本当におぼろげながらこれとは分からない何かを求めています)