再登場で、杉浦貴之さん。昨日、西尾市文化会館でトーク&コンサートを聞いてきた。350名くらいの小ホールに立ち見も出て約400名の観客を集めた。
 1999年10月、28歳にして腎臓ガンを宣告され、即手術。余命半年、長くても2年の命と言われて、宮崎県に移住。病床ではホノルルマラソンに出場する夢を思い描いていた。元気になるということを疑いなく信じたという。そして、余命2年とは絶対に信じなかった。
 2005年にはホノルルマラソン完走。「走れるほどに元気になったのではなく、走ったから元気になった。」と言う。 
 彼の話のいたるところに、「感謝」「愛」「いのち」がちりばめられている。生かされている命とも言った。その言葉には説得力がある。彼は命と向き合い、今輝いている人々の体験を綴った情報誌「メッセンジャー」の編集長をしている。彼の元気な姿が全国の患者を励まして、どんどん仲間が増えている。
 彼の話を聞いて、これは法話だと思った。阿弥陀仏も念仏も出てこないが、真宗を知っているものなら彼の後ろに阿弥陀仏を見られる。大きな力は真宗と関係がなくても、すべての人に振り掛かっている。それを我々は阿弥陀の働きと言うが、そんなことはどうでもいいことである。いのちの法話をして400人の人を集められる。しかも老若男女。寺院ではどうしてできないのかを反省したい。そして「いのちの話(法話)」では、このような人たちにはかなわないと思った。お寺ができるのは、説教であり、教えを説くことであると思った。いのちの話は空々しい。
 お西の講習会では、講師の先生が引例で終始し、自分の意見すら言わなかった。これは賛否両論があろう。お取次ぎという立場でならそれでもいいのかなぁと思う。自分の意見はおこがましい。○○さんがこう言っている。△△さんはこうである。しかし、それでは全く響かない。「いのちの話(法話)」はできる人にたのまざるを得ないのか?
 杉浦貴之さんは、この秋に結婚して西尾市に帰ってくる。刈谷市四日市市での講演がすでに決まっている。西尾地区には法話楽団「迦陵頻伽」がいて、全国をとびまわっている(8/31午後2時岐阜県関市文化会館で『迦陵頻伽』ライブコンサート)。いのちの歌を歌う名人が二組も揃うところも珍しいのではないだろうか。(まだまだ岡崎市にも「いのちのうた」鈴木君代+天白真央さんや「本願力にあいぬれば」平田聖子さんらが居ますが)
 来年は西尾のお寺で、彼の講演を聞く事も多くなるだろう。