また、『絵解き』の季節が近づいきた。今年は、初めての絵として11月に「観経曼陀羅」を予定している。無謀なチャレンジかも知れないが、これも縁であり、楽しく(ちょっと苦しみながら)勉強している。そうでもしないと「観経疏」なんて読むことはないであろう。
 が、まず9/27の予定は「二河白道」の絵解きである。あと2ヶ月なので内容を検討してみた。基本の話は何度もしているので話せるのだが、どうもしっくりしない。

 最近、事件が頻発している。それは「誰でも良かった」という通り魔殺人事件であり、中学生が父親を殺すというような短絡的・衝動的と思われるような事件である。

 「二河白道」の譬えは、人のことではない、自分のことについて深く内省し、道を求め信じて進むということを教えてくれる善導大師の教え(観経理解の手立)である。「ニ河白道」の絵を見ると、自分は果たしてどこにいるのだろうか、という問いを投げ掛けられているような気がしてくるし、一歩踏み出すことへの何かを感じさせる力を持っている。
 ここで、関係ないことかも知れないが考えてしまうことは、すでに通り魔のような「誰でも良かった殺人事件」を起こしてしまった人に、「ニ河白道」の譬えは通じるのだろうか、と言うことである。殺人犯も今これから西に向かおうと発起すれば、同じように彼岸にたどり着くのだろうか。
 仏法(浄土経の阿弥陀の教え)では、阿弥陀様はすべて漏らさず救い取ると誓われているので、犯人が菩提心を起こしさえすれば(阿弥陀様の名を申せば)救われるはずであるし、犯人が実際にそのような心持ちになれば、救われたということになるのであろう。
 自分にはそこの納得いく説明がつかないのである。殺人を犯して、人を不幸のどん底に落とし、檻の中かもしれないが、悠々として生きている。そこに、万人の救いが見出せるのか?これは、人間と言うものの課題である。

 宗教は哲学や道徳や科学と違って、善悪を問わない、衆生の規範に縛られない、時代によって変わるようなものでもないし、実存という概念に対立するようなものである。宗教は、人類がどうしたら幸福な生活をまっとうできるかというような問題には関係がない。そのような人間中心の考えとは違う世界観が宗教の真理である。

 宗教(浄土の教え)を純粋に説こうとすると、人間の理解を超えた頭脳か感性が必要となる。これは、人間には至難の業だ。とすると、知識に頼って、宗教的にはこう考えるのが正解だと、そんな発想で誤魔化してしまう。そこに引っ掛っているのだと思う。

 上記のような宗教観が本当の宗教なのだろう。そして、「ニ河白道」の譬えもすべての衆生を救う真理を説いているのだろうが、人間である自分はそこにまだ引っ掛っているのだ。どうしたら、自分が納得できる宗教世界観を、従来の浄土真宗の教えと矛盾せずに説明できるか。「ニ河白道」の譬えとは…。

 最近、一つ新しい発見があり、結構今の若者の閉塞感を説明できるのではないかという説き方を見つけた。それが、親鸞聖人の領解とか、善導大師の解説とかに合うか合わないかではなく、自分の味わいなのだ。自分の絵解きのキーワード、「気づきと共感」。自分はこのように気づきました、と発表させていただいて、あとは聞いた人がそうだ、と思ってくれれば、それでいい。とは言っても、善導大師、親鸞聖人の基本はしっかり説明させてもらいます。自分はさらにすすんで、聞いた人の受け取り(領解)もまた「ニ河白道」のお味わいではないかと思うし、そのような動きが出てこないと「絵解き」をした甲斐もない。かつて「絵解き」とは、衆生の楽しみであったろう。時代に合わせた解説も必要だと思う。