紀野一義という人。本の紹介でも良いかも知れませんが、多数あるので、詳しくはこちらhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E9%87%8E%E4%B8%80%E7%BE%A9
 先日、絵解きに行った幸田町のお寺は、たまたま今年の涅槃会の会所だったのですが、実は7年前にちょっとしたご縁があったお寺です。
 岡崎のお寺に説教に来られていたご住職のお話は「悪人正機」でした。その話を聞いて、まだ仏法を聞き始めの自分は、「そんな馬鹿な話はないし、そんなことでは向上心というものが無くなって、世の中は進歩しないではありませんか。」とそのお寺さんまで追っかけて行き、詳しいお話を伺ったという縁があったのです。
 その時に薦められたのが「紀野一義」という人の本を読んで見なさいということでした。今から考えると、どうして宗門の本を紹介しなかったのかと思いますが、そんな縁で紀野一義氏の本が何冊かありますし、カセットテープも聞きました。いい声で惹きつけられる何かがあることは感じました。
 そんなこともあって、もう一度「私の歎異抄」「勇気とやる気が湧いてくる本」を読んでいます。「親鸞 何が人を強くするのか」はこのブログでも紹介しました。
 今までそれほど気にしていなかったので知らなかったのですが、紀野氏は東京大学印度哲学科卒、真如会(しんにょえ)という会の主幹をされています。そこに集まる人は50〜100人(1988年当時)、名も無い市民の、のんびりした、あたたかい集いという気風を大事にした会だそうです。そこでたくさんの人が救われています。生き方が下手でも生きのびるルールは自分で編み出す、そんな生き方が生まれているようです。これは「こころの寺」構想と全く意を同じにしていると思いました。自分のやろうとしていることに見本があったという感じです。
 自未得度先度他(じみとくどせんどた)」これは道元禅師の言葉だそうですが、「発心とは、はじめて自未得度先度他の心をおこすなり。これを初発菩提心といふ。この心をおこすよりのち、さらにそこばくの諸仏にあひたてまつり、供養したてまつるに、見仏聞法し、さらに菩提心をおこす…。
 自未得度先度他の心をおこせるちからによりて、われほとけにならんとおもふべからず。たとひほとけになるべき功徳熟して、円満すべしといふとも、なほめぐらして衆生の成仏得道に回向するなり。この心われにあらず、他にあらず、きたるにあらずといへども、この発心よりのち、大地を挙(こ)すればみな黄金となり、大海をかけばたちまち甘露となる」

 他を度することこそが自分を度することにつながっていく。分かりやすい教えです。そして紀野氏ご自身も、紀野氏に出会った人たちもそれぞれ救いの輪が広がって、生き生きと生活できる人々を生み出している現実があります。
 言っている真理は同じだと思うのですが、真宗でよく知られている言葉に「自信教人信」があります。「自信教人信」という言葉には、本来の意味とは別に現状の停滞を肯定できてしまう言い訳に使えるところがあるのです。うまく言えませんが、娑婆では意に反してマイナスに使われる場合が多いようです。それだけ自信(自らの信心)がない人が多くなってきたということでしょう。「信心も無いくせに」というブレーキは踏みたくないものです。
 今、思うと最初に紀野一義氏を紹介してくださったご住職のご縁をありがたく思います。なぜ、氏を紹介してくれたのでしょうか? 同じく7年前、別の住職に、ほとんど初対面にもかかわらず「坊主にならんか」と言われ、「いいえ、自分はこの鎖のように仏教と世間をつなぐ役目がいいです」と断ったことも思い出します。なぜ、素性もわからない自分にそんなことを聞いたんですか?その住職はお浄土に行かれましたが、それが今の活動の原動力にもなっています。亡くなる前の住職に「住職にとって念仏とはどういうものですか?」の問いに「念仏は阿弥陀様との挨拶のようなものだ」と言っていました。
 本当に不思議なご縁です。