以前にも本の紹介で書きましたが「14歳からの哲学 考えるための教科書」池田晶子
 2007年9月10日で第19版であるのでいかに多くの人に読まれているかが分かる。
どうせ死んでしまうのだから、生きることは空しい、という言い方は正しいだろうか。
 (中略)
生きる苦しみや死ぬ恐れに出会って、人はそのことの意味や理由を求める。そうしなければ、その苦しみを納得できないと思うからだ。でも、納得できないということなら、宇宙が存在する、なぜ存在するのかわからない宇宙がなぜか存在するというこのこと以上に、納得できないことなんかあるだろうか。宇宙が存在するということは、神が創ったのではない宇宙が、しかし存在しているというこのことは、とんでもないこと、ものすごいこと、まったく理解も納得もできないことではないだろうか。これは奇跡なんだ。存在するということは、存在が存在するということは、これ自体が驚くべき奇跡なんだ。存在するということには意味も理由もない、だからこそ、それは奇跡なんだ。
 自分が、存在する。これは奇跡だ。人生が、存在する。これも奇跡だ。なぜだかわからないけれども存在する自分がこの人生を生きているなんて、なんて不思議でとんでもないことだろう。まさか今更両親から生まれたなんてことで、この不思議が納得できるわけがないよね。だって、その両親が存在することだって、やっぱり同じ奇跡なんだから。
 人生が存在するということ自体が奇跡なんだから、そこで味わう苦しみだって、奇跡だ。なぜあるのかわからないものが、なぜかあるんだから。そんなふうな、あること自体の驚きの感情を失うのでなければ、苦しみの意味や理由を求めて悩むことは少なくなるだろうし、人生が空しいだなんて思うこともなくなるであろう。なぜか宇宙が存在して、星々が永遠に生成消滅を繰り返しているなんて奇跡的な出来事が、どうして空しいことであるはずがあるだろう!
 考えることが大事である。五劫思惟派の意味にもつながる。仁隆寺の山号、天網山はネットを暗示する意味もあるが、「天網恢恢粗にして漏らさず」の意味もある。善悪の基準は何であるか。それは自分の中に、自分の心に、明らかに存在している。
 「存在する」ということは、奇跡だ。存在する限りのあらゆることが奇跡であり、したがって謎なのだという絶対の真理を手放さないのであれば、君は、これからの人生、この世の中で、いろんなことがあるけれども、悩まずに考えてゆくことができるはずだ。そのためにこそ、人間には、考える精神があるんだ。考えたいけどうまく考えられない、そういう人だって、かまわない、生と死の謎を感じて、その謎を味わいながら、大事に人生を生きてゆけばいい。真理は、すべての人の内に等しくあるものだから、そのことを信じてさえいるなら、大丈夫だよ。
 真理は、君がそれについて考えている謎としての真理は、他でもない、君自身なんだ。君が真理なんだ。はっきりと思い出すために、しっかりと感じ、そして、考えるんだ。