法話は、巷に偽装が横行して、今年の漢字が「偽」だったということから始まり、17条憲法のはなしになりました。
 17条の憲法の十に曰く
『忿(こころのいかり)を絶ち、瞋(おもえりのいかり)を棄てて、人の違(たが)うことを怒(いか)らざれ。
人皆心有り。心おのおの執(と)れること有り。
彼是(よみ)すれば我は非(あしみ)す。
我是(よみ)すれば彼は非(あしみ)す。
我必ず聖に非(あら)ず。彼必ず愚かに非ず。
共に是れ凡夫(ただひと)ならくのみ。 
是(よ)く非(あ)しき理(ことわり)、たれか能(よ)く定むべけん。
相共に賢く愚かなること、鐶(みみかね)の端無きが如し。
是(ここ)をもって、彼人瞋(いか)ると雖(いうと)も、還りて我が失(あやま)ちを恐れよ。
我独り得たりと雖も、衆(もろもろ)に従いて同じく挙(おこな)え。』

  • おもえり(面貌):かおつき。おももち。
  • ならく    :…であること。
  • みみかね   :金属製の耳飾り

 凡夫と書いて‘ただひと’と読ましている。共に凡夫。人が違うことに怒ってはならない。人は皆、執着する心を持っている。彼が是なら、私は非。私が是なら彼は非。これは当然のことである。しかし、どちらが正しいかは分からない。私が必ずしも正しいとは限らない。彼が必ずしも間違っているとは限らない。共に是非の分からぬ凡夫であるということ、それだけが事実である。是も非も区別のつかない環のようなものである。そうと分かれば、彼が怒ろうとも私が間違っているかもしれないと顧みよ。私が正しいと思っても、みんなの意見を聞いて行動せよ。
 耳が痛いことです。凡夫(ぼんぶ)と言いながら凡夫とは思えない自分がいる。常に人のせいにしてしまう愚かな偽凡夫がここにいます。最大の「偽」は偽凡夫の自分でした。
 「偽」が分かるためには「真」に会わねばなりません。親鸞聖人が聖徳太子を敬ったということが分かるような気がしました。