毎日新聞夕刊に筑紫哲也氏の闘病生活が載っていました。無常を感じ、毎日を大事に生きていけるようになった。今、源氏物語を猛烈な勢いで読んでいるとも。氏は72歳でまだ若いと言えば若い。残りの人生を癌というもので輝かせてもらったと思えるようになったようです。新聞を買いにコンビニへ行ったのですが売っておらず、細かいことを紹介できずにすみません。
 その記事とは別のページに、次の事故の記事が載っていた。
蛇行運転→パトカー追跡→ガードレールに激突死!
 栃木県で、パトカーに追跡されていた車がガードレールに激突し、運転していた男性が死亡しました。26日未明、栃木県小山市で、警戒中のパトカーが蛇行運転している車を発見しました。捜査員が赤信号で停車した際、車に近づくと、車は突然、猛スピードで走り出しました。パトカーはサイレンを鳴らして追いかけ、途中で見失いましたが、約1.6キロ先の下野市内の国道で、ガードレールに激突して大破した車を発見しました。運転していた人は、頭の骨を折り、搬送先の病院でまもなく死亡しました。栃木県警は「現時点では、正当な職務執行であったと考えています」とコメントしています。
 死を取り扱った記事でも、こうも両極端が同じ日の新聞に出ているのを読んで、複雑な心境であった。仏教の場では、生かされて毎日有り難く生きていけることに感謝といい気分にさせてもらえるのだが、一歩社会に出ると、何を死ぬほどの悪いことをしたのか、いつも何かに怯えて逃げ回っている世界がある。あげくの果てに激突死。本人はそれを望んでいたのだろうか。昨日の今ごろは何をやって、何を考えていたのだろうか。もし、激突死が嫌だったら、そこから変えていかなければならない。この前も書いたが死ぬ原因を選べたら、ほとんどの人は事故死を選ばないであろう。その時その時に、賢明な選択をして生きて欲しい。その人も、もっと生きて何かやるべきことがあったと思う。
 両極端が現われる要因は、死期を覚悟しているか、当たり前に生きているか、この二つにつきると思う。わたしたちは、人寿○○才の死期を覚悟して「明日死すとも悔いなし」と思って生きていくのと、無関心でいるのとでは、今は同じように楽しく過ごしていても、臨終のときに何か大きな違いがあると思うし、大きな違いがなければいけないと思う。ある人は、正月に今年の○月○日に亡くなるとイメージして、毎年生きているというようなことを聞いたことがある。自分も63歳の誕生日を命日として毎日を過ごそうと決めている。そこまで生きられる保障すらないが、そう思うことで、何となく毎日楽しく生きられる気がしている。皆さんはどうでしょうか?