今日、講師の先生が言われた事は、仏法を聞いて利他に動かなければ(度衆生心が起きないと)意味がないのでは、ということでした。自力自力と言わずにまず一歩踏み出すこと。阿弥陀の教えは一歩踏み出さしめる教えであり、一歩踏み出したところに自覚なり、反省が芽生える。何もしない(結果的にそうなっている)他力ではなく、積極的に利他の動きが出てくる教えを説かなくてはいけないと、時代とともに変わりつつあるように思うし、その傾向が出てきていると言っていました。
 自分は数年前に一般論で「現代の空回りしているような布教ではダメで、みんなが何かに気づき変わっていくようなものにしないといけないのでは」と意見したことがあります。その時「それは思いで、思いは破られる、出来るならやってみればいい。」と尼さんだったけど悟ったようなことを言われたことを思い出しました。その時は、なんて詰まらない「教え」だろうと思ったものです。阿弥陀の教えは全ての人を救う。動こうが動こまいが、どの人も平等に救う。しかし、それはこころに一心(金剛心)を持っている場合であって、誰かの受け売りで「他力」などと言っていれば、迷いのどん底に突き落とされてしまうでしょう。今、その尼さんに会えたらその後どう考えているか、聞いてみたい気がしました。