歎異抄の第1章を基にして法話は始まった。
 真宗は仏教を釈迦からではなく弥陀の本願から始まっていると見る。
 何故仏法を聞くのですか?・・・人間として生き生き生かさせてもらうため。聞法するために生きていると言っても良い。三帰依文の「人身受け難し…」をしっかり受けとめる。
 「勿体ない」とはどういうこと。・・・「過分」だと言うこと。分相応でなく超過している。過分の状態で生きていれば不満は起こらない。
 念仏とは・・・何処までいっても分からない。「自分とは(自己とは何ぞや)」これも何処までいっても分からない。感得するもの。頭で納得しないと不安になるが、分かる必要のないものもある。
 念仏するとは・・・救われた証である。
 楽しみには、外楽(げらく)と内楽のほかに法楽がある。外楽(げらく)と内楽には条件がつけられるが、法楽には条件がない。いつでも、何処でも、誰でもが楽しめる楽しみ。念仏のない人は「外楽(げらく)と内楽」のみで寂しいこと。
 と話は進んで後半は、弘法さんの話から、神棚の話へ。
 弘法さんにお参りしますか?般若心経を読みますか?の問いに聴聞にきた人たちの多くが「ハイ」と答える。
 神棚はありますか?の問いに全員胸を張って「あります。」と答える。
 では、先祖と神様はどっちを先に参ればいいのですか?の問いにみんな迷う。
 「家を守ってくれる神様を拝まんわけにいかんだろう。」と声があがる。
 講師は辛抱強く、葬儀にかかわる迷信が如何に多いかを例を挙げて説明する。その上でいわゆる「神棚」がいつから家庭に入ってきたかを説明。真宗阿弥陀様。神社に行っても、弘法さんに行っても「南無阿弥陀仏」これ一つでいいんですとの説明にみんな今まで考えたこともないという風でちょっと困惑しながら納得。
 縁起をかつげば、次の人も縁起をかつぐ。ご先祖が神棚を必要だったか、必要でなかったかそれだけのこと。あとはその人次第。真宗では神棚は必要ないというそれだけのことです。
 講師の方も言っていましたが、「清めの塩」はやっと最近止めになったが、友引葬儀はまだ少ない。葬儀場への行きと帰りの道を変えたり、「天国」「冥福」などの言葉も使われる。まだまだ改革しなければならないことがいっぱいある。今までやってきたことを変えようとすることは容易なことではない。
 話はつきなかったが、聴聞にきた人たちを巻き込んでわいわいと雑談風の時もあり、珍しい法話になった。そこらここらで「そうは言っても」とか「そう言われればそうやね」とか声があがった。「聞かにゃ分からんかった」という声も。多分おばあちゃんたち歎異抄の一つも残っていないでしょうが、問題意識は持ったのでは。
 今、蓮如上人を勉強しているのでそちらに頭が行ってしまうのですが、それにしても、このような聴聞者をみんな帰依させて、真宗の教えをしっかりと植え付けて行った蓮如上人という人はすごいと改めて感服した。「御文」「講」に変わる現代に通じる布教法を親鸞聖人750回忌までに考えられないかと思っています。その前に同朋会運動の総括をしなければいけないと思いますが。