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信心についての話。親鸞聖人は一生を通じて信心を訴えてきた。
真実信心とは、如来より賜りたる信心であるということ。
賜るということは、身の上に置く状態。それはどういうことか?…「聞其名号」ということ。その後に「信心歓喜」と続く。(仏説無量寿経巻下 本願成就文)
聴・・・(私が)意識して聴く。自分勝手にその人の都合で聞くから、その時その時でいい話、つまらない話になる。
「今聴きて さこそさこそと 思えども 家に帰れば あとかたもなし」
聞・・・聞こえてくる → 見るものに敬いの心が出てくる。
「今聞きて すぐに忘るる 身なれども 心に残る 六字の名号」
信ずることも、念ずることも弥陀如来のご方便よりおこさしむるばかりなりと思うべし。
頭では分かったつもりになるのだが、実際にはどんな感覚か今の自分には想像もつかない。信心決定の確かめ方があるとすれば、信心の行者は行き詰まることがない。だから、有り難くて、報恩感謝の気持ちが起こるのである。行き詰まることがないから、間違っても、困ったときの神だのみはありえないのである。
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開山親鸞聖人のすすめましますところの、弥陀如来の他力真実信心というは、もろもろの雑行をすてて、専修専念一向一心に弥陀に帰命するをもって、本願を信楽する体とす。されば先達よりうけたまわりつたえしがごとく、弥陀如来の真実信心をば、いくたびも他力よりさずけらるるところの仏智の不思議なりとこころえて、一念をもっては往生治定の時剋とさだめて、そのときのいのちのぶれば、自然と多念におよぶ道理なり。これによりて、平生のとき一念往生治定のうえの、仏恩報尽の多念の称名とならうところなり。しかれば祖師聖人御相伝一流の肝要は、ただこの信心ひとつにかぎれり。これをしらざるをもって他門とし、これをしれるをもって真宗のしるしとす。そのほかかならずしも外相において、当流念仏者のすがたを、他人に対してあらわすべからず。これをもって、真宗の信心をえたる行者のふるまいの正本となづくべきところ、件のごとし。